下克上と敗北
陶晴賢(すえはるかた)は主君であり、当時北部九州・中国地方を支配していた大内義隆を討った戦国時代の武将です。
晴賢は主君を討つ下克上を行うと、大友晴英(後の大内義長)を大内家の当主に擁立し、事実上 大内家を支配することになりました。
しかし最後は毛利氏との厳島の戦いにおいて、数倍もの兵を有していながら敗死することになり、この劇的な寡兵側の勝利は「毛利家の桶狭間」と言われる程の番狂わせな戦となりました。今回、この陶晴賢について調べてみました。
容姿端麗だった 陶晴賢
晴賢は1521年(大永元年)に大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)の次男として生まれました。
幼少の頃より容姿が端麗であった晴賢は大内氏の第31代当主・大内義隆の寵愛を受けて近侍したと伝えられています。
晴賢は、天文9年(1540年)に出雲の尼子晴久が、毛利元就の吉田郡山城を攻めた際に、毛利氏の主家として後詰に出陣しました。この時、晴賢は大内義隆から総大将に任じられ、翌天文10年(1541年)には尼子勢を退ける功を挙げました。
しかし、続く天文11年(1542年)には尼子領への侵攻を行いましたが敗退し、同時にこの戦で多数の重臣を失ったことで主君・義隆の信を失ったとされています。
下克上への道
尼子氏との敗戦以後、義隆は相良武任(さがらたけとう)という文官を重用し、晴賢は遠ざけられて大内家における求心力を失っていきました。
この状況から晴賢は、天文19年(1550年)に武任の暗殺を企図します。しかしその計画が事前に漏洩したことで義隆の知るところとなり、大内家における地位を完全に失うことになりました。
その後の天文20年(1551年)1月、武任から晴賢らが謀反を企てているとする訴えがなされた事で、いよいよ追い詰められた晴賢は、同年8月に兵を挙げると9月には長門大寧寺において義隆を自害させ、義隆の嫡男・義尊も亡き者として謀反を成功させました。
晴賢は、翌天文21年(1552年)には義隆の養子であった大友晴英(豊後の大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟)を大内氏の新当主に擁立し、大内氏の実質上の支配者となりました。
毛利の台頭
しかし2年後の天文23年(1554年)、晴賢の統治から離反する勢力が勃興してきました。
義隆の義兄にあたった石見の吉見正頼や、安芸の毛利元就などの勢力です。
晴賢はすぐに吉見正頼の征伐に向かいましたが、兵を石見に向けたところを元就に狙われ、これによって安芸の大内勢の大半の城を毛利勢の手に握られることになりました。
晴賢は毛利勢に反撃すべく、安芸へと兵を送りましたが大敗を喫し、安芸の支配権は毛利が握ることになりました。
厳島の戦い
こうした状況から、晴賢は総力を挙げて毛利討伐を行うことが先決と判断し、攻め込んでいた岩見の吉見勢と和議を結んで安芸へと兵を向けました。
その数凡そ2万の大軍とも伝えられています。
これに対する毛利勢は僅かに4千程度の兵力とされており、数の上では晴賢らの軍勢が圧倒的に優勢な状態でした。
弘治元年9月、晴賢は自ら大軍を率いて、安芸の厳島へ上陸し、毛利方の宮尾城を陥落させようとしました。
しかし厳島に攻め込ませたこと自体が毛利勢が仕掛けた流言飛語であり、毛利勢は巧みに奇襲を仕掛けて寡兵にも関わらず晴賢の本陣を攻めたとされています。
海上では毛利氏に与した村上水軍によって大内勢の水軍が敗れたこともあり、退却もできない状況に陥ったとされています。この厳島の戦いで晴賢自身も自刃、享年35で果てることとなりました。
その後の大内氏
この厳島戦いの後、毛利勢は晴賢が擁立していた大内義長も勝山城で自刃させて、大名としての大内氏を滅亡させることになりました。
その後、大内氏の旧領を支配した毛利家は中国地方の大大名と躍進、貿易都市である博多と、石見銀山を巡って九州の大友氏や山陰の尼子氏と互する有力な勢力へとなり、関ケ原の戦いまでその支配地域を維持することになりました。
一説では晴賢は大内義長を擁立する際、大友氏に博多の街の支配権を譲ることでそれを容認させたとされています。
武将として、寡兵な毛利に敗れた晴賢ではありますが、経済的な力も自ら放棄していたと言えるのかもしれません。
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