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やなせたかし「代表作がない…」絶望の中で生まれた『手のひらを太陽に』※あんぱん

子どもたちのヒーロー「アンパンマン」。
その作者・やなせたかし氏は、テレビアニメの成功によって一躍国民的作家となりました。

しかし、やなせ氏がその名を世に知らしめたのは、なんと70歳を迎えた頃でした。

順風満帆に見える人生の裏には、長く暗い“無名時代”があったのです。

34歳で漫画家として独立するも、ヒット作には恵まれず、50代までの人生は「失意の連続」だったと語る、やなせ氏。

生活は安定していたものの、心の奥には「代表作がない」という焦燥が常に渦巻いていたといいます。

今回は、そんな彼が「絶望のトンネルの中にいた」と振り返る、知られざる苦悩の時代に迫ります。

34歳で念願の独立を果たす

画像 : 独立後定期連載していた「ビールの王さま」(『知性』,知性社,1955-08 国立国会図書館デジタルコレクション)より引用)

昭和28年、やなせ氏は34歳で三越を退社し、漫画家としての道を歩み始めました。

それまで所属していた「独立漫画派」から「漫画集団」に移り、大小あわせて25本の連載を抱えるようになります。

「漫画集団」は、昭和7年に結成された歴史ある漫画家の団体で、戦後は漫画界の主流派となり、手塚治虫氏や赤塚不二夫氏などの人気作家が大勢参加しています。

仕事は順調で、生活も安定していたやなせ氏でしたが、肝心の“ヒット作”にはなかなか恵まれません。

そんな中、漫画界には大きな変化が訪れます。

長編漫画が人気を集めるようになり、やなせ氏が得意としていた4コマ漫画の発表の場は、次第に狭まっていったのです。

困った時のやなせさん

画像 : 書籍化されたNHKの人気番組『まんが学校』やなせたかし, 立川談志著『まんが学校』,三一書房,昭和41 国立国会図書館デジタルコレクション

戦後間もない頃の漫画家は、新聞や雑誌などの印刷媒体のほか、ラジオや舞台などにも活躍の場をもっていました。

生活のため、やなせ氏も漫画ルポや芸能人へのインタビュー、CM漫画にNHKラジオの台本制作など、ありとあらゆる仕事を受けていました。

「来るものは拒まず」が信条で、どんな依頼にも快く応じていたやなせ氏は、いつしか「困った時のやなせさん」と呼ばれるほど、周囲から頼りにされる存在となっていました。

昭和33年、39歳のとき、女優・宮城まり子さんからリサイタルの構成と衣装デザインという、やなせ氏にとってまったく未知の分野の仕事を依頼されました。

画像 : 宮城 まり子 public domain

やなせ氏が手がけた舞台構成と衣装は大きな反響を呼び、その成功を機に、彼は舞台美術や司会など、舞台にまつわる新たな才能を次々と開花させていきます。

当時、駆け出しの構成作家だった永六輔氏からは、ミュージカルの舞台美術を依頼され、この仕事が縁で、生涯の友となる作曲家・いずみたく氏と知り合いになりました。

また、映画監督・羽仁進氏からは、連続テレビ映画『ハローCQ』のシナリオ執筆を任されます。

羽仁氏はシナリオに対して非常に厳しく、何度も書き直しを命じられるうちに、やなせ氏は自然と脚本術を身につけていったそうです。

さらに、当時開局したばかりのテレビの仕事にも多数携わり、裏方だけでなく、自らテレビ出演するようになります。

昭和39年、45歳のやなせ氏は、NHK『まんが学校』に司会の落語家・立川談志とともに漫画の先生役で登場。
番組は評判がよく、3年ほど続きました。

やなせ氏は一躍人気者となり、日本全国どこへ行っても「まんが学校の先生だ」と声をかけられ、たちまち人だかりができるほどの注目を集めました。

その過剰な反応には、さすがに困ったといいます。

そして、この『まんが学校』出演を機に、ラジオとテレビの仕事が増えていくのですが、この番組はやなせ氏にもうひとつの転機をもたらしました。

それまで大人向けの漫画家だったやなせ氏のもとに、子どもの雑誌から注文がくるようになったのです。

苦悩する日々の中で生まれた「手のひらを太陽に」

画像 : いずみたく public domain

マルチな才能を発揮し、その働きぶりが評判になると、次から次へと仕事が舞い込み、やなせ氏はフリーとして十分に生計を立てられるようになりました。

それまで共働きで生活を支え合ってきた二人に経済的な余裕が生まれ、妻の暢さんは会社勤めを辞めて家事に専念することになりました。

しかし皮肉なことに、この多才さが「漫画家・やなせたかし」としての道を遠ざける結果にもなっていきます。

ラジオやテレビの構成、シナリオ制作など、どの仕事もそれなりに面白く、未知の分野であればあるほどやなせ氏の意欲はかき立てられました。

決して器用にこなしていたわけではなく、どの仕事にも真摯に向き合っていたのです。

けれども、こうした多忙な日々を送るうちに漫画の仕事がほとんどなくなり、「世界の漫画界に衝撃を与えるような漫画を描きたい」という夢は、いつの間にか消えていました。

40代半ばにして、やなせ氏は初心を忘れてしまっている自分にふと気づき、同時に、漫画家としていまだ代表作がないことに深い悩みを抱えていました。

『まんが学校』で有名になり、子どもたちにサインを求められるようになっても、目の前でサラサラと描けるキャラクターがないのです。

34歳で独立してから漫画家としては無名のままだった当時を、やなせ氏は次のように振り返っています。

人生は失意の連続だった。特に三十代から五十代ごろまでは、絶望のトンネルの中にいた。漫画家としての仕事のほかにあれこれやっていたので、生活に困ることはなかった。でも、「これが代表作だ」と言い切れるものがない。歌手に持ち歌があるように、漫画家は誰でも知っている人気キャラクターを持たなければ、存在しないのと同じなのだ。

やなせたかし著『明日をひらく言葉』より

所属していた「漫画集団」の先輩はもちろん、同期の面々も漫画界で華々しく活躍していました。

「漫画集団」は、漫画家同士の親交を深める場でもあり、団員たちが揃って海外旅行に出かけたこともありました。

しかし、その旅にやなせ氏が呼ばれることはありませんでした。

確かに、漫画集団の中での序列はずっと下のほうだ。声がかからなくても当然だ。でも、そうわかっていても、自分は完全に無視された、存在していないのと同じだと思い知らされ、深く傷ついた。

やなせたかし著『明日をひらく言葉』より

気がつけば、後進の若手たちに次々と追い抜かれ、やなせ氏の胸には敗北感と寂しさが広がっていました。

そんな取り残された気持ちを振り払うかのように、あえて徹夜で絵を描き、詩作に没頭する日々を送り続けていた42歳のとき、夜更けに子どものころに遊んだ「レントゲンごっこ」を思い出し、何の気なしに懐中電灯を手のひらに当ててみました。

すると、びっくりするほど血が赤く透けて見えたのです。きれいで見とれてしまうほど赤い色でした。

心がしおれていても、体の中には赤い血が脈々と流れていると思うと、なぜか励まされたように感じ、「手のひらを太陽に」の詩が頭に浮かんできました。

後に、作曲家・いずみたく氏が曲をつけ、広く知られることとなるこの歌は、実は絶望の淵に立たされたやなせ氏が、自らを奮い立たせるために生み出したものだったのです。

人生にムダなことなんて一つもない

画像 : イメージ(『生きる』1952年)public domain

自分がどこへ向かっているのか、自分らしさとは何なのか。答えが見つからないまま、長い焦燥の日々を送っていたやなせ氏でしたが、このときの経験は決して無駄ではなかったそうです。

僕はもっと若い頃に世に出たかったんです。ただ遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません。
こんなことをしていていいのかと思っていたことが、みんな勉強になり、役に立っていく。人生にムダなことなんて一つもないんですよ。

やなせたかし著『何のためにうまれてきたの?』より

たくさんの人たちとの出会いが新しい才能を開花させ、人と人とのつながりが新しいチャンスや可能性を生み出していきました。

そして、50歳を迎えた頃、絶望のトンネルの向こうにぼんやりと光が見えはじめたのでした。

参考文献 :
やなせたかし『明日をひらく言葉』PHP研究所
やなせたかし『何のためにうまれてきたの?』PHP研究所
やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部

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