弥生時代の日本で最大勢力を誇ったとされる邪馬台国については、現在も決定的な資料がなく、多くの謎に包まれている。
その所在地については、近畿説と九州説の二大説が有力視されている。
その中でもさらに様々な説があり、例えば九州説の中でも、長崎説、北九州説、吉野ケ里説など複数存在し、学者の間でも意見が分かれている状況である。
今回は、村雨賢次氏の著作『ヤマタイ国はどこへ行った』を参考に、大分・宇佐説を紹介する。
目次
邪馬台国についての記述がある「魏志倭人伝」

画像:魏志倭人伝 public domain
邪馬台国時代の日本にはまだ文字が存在せず、自国による記録は残されていない。
そのため、邪馬台国の存在を確認できるのは古代中国の歴史書のみである。邪馬台国について記述がある文献では、西晋時代の陳寿によって書かれた『魏志倭人伝』が有名である。
しかし、この『魏志倭人伝』の記述にはいくつかの問題があるのだ。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国までのルートや総距離が詳細に記載されているが、その指示通りに進むと海のど真ん中に到達し、陸地にはたどり着かないのである。
このことから、『魏志倭人伝』に記載された情報には何らかの誤りがあるか、情報自体は正確であってもその解釈が誤っている、と考えられている。
魏志倭人伝に記述された「邪馬台国までのルート」
魏志倭人伝に記述された、邪馬台国までのルートは以下となっている。
① 帯方郡から海岸沿いに水行して、南や東へ七千余里進むと狗邪韓国
② 海を渡って千余里で対海国
③ 南に海を渡って千余里で一大国
④ 海を渡って千余里進むと末盧国
⑤ 東南に陸行で五百里行くと伊都国
⑦ 東南に五百里行くと奴国
⑧ 東に百里行くと不弥国
⑨ 南、投馬国。水行二十日
⑩ 南、邪馬台国。水行十日、陸行一月。

画像:帯方郡から一大国までのルート 筆者作成
なお、魏志倭人伝によれば、帯方郡から邪馬台国までの総距離は一万二千余里。
帯方郡から具体的な里数が記述されている不弥国までは、合計一万七百里で、邪馬台国まで残りは千三百里前後である。
①の帯方郡は現在のソウル付近、狗邪韓国は現在の釜山付近が定説とされている。
②の対海国は現在の対馬、③の一大国は現在の壱岐にあたるとされている。
問題点その1:九州上陸地点 末盧国はどこ?
魏の使節団はソウルを出発し、釜山、対馬、壱岐を経由して④末盧(マツロ)国に上陸した。
その後の⑤以降のルートは主に陸行となっていることから、末盧国は小さな島ではなく大きな陸地にあったと考えるのが自然である。
九州説の多くが「末盧国は松浦半島(現在の佐賀県唐津市)」としている。主な理由は、「マツウラ」と「マツロ」の発音が似ていること、また壱岐から最も近い北部九州の海岸であることに基づいている。
しかし、村雨氏はこの「末盧国=松浦半島説」に異を唱えている。
上記ルートでは、釜山から対馬、対馬から壱岐までの距離と同じ千余里、壱岐から進んだところに末盧国があったということになる。
しかしそれにしては、松浦半島(唐津市)は、あまりにも壱岐からの距離が近い。
そこで村雨氏はコンパスを用いて、壱岐を中心に対馬までの距離に合わせて、使節団が進んだ南東方向に線を引いた。
その結果、コンパスで引いた線上に位置する海岸が、神湊あたりであることが分かった。
村雨氏は「末盧国は、神湊を含む現在の福岡県宗像市あたりに存在していた」と提唱している。

画像:考えられるルート 筆者作成
問題点その2:距離の誤差
邪馬台国の所在地を考察する際に次に注目すべき点は、帯方郡(ソウル)から邪馬台国までの総距離、一万二千余里の「余里」をどう解釈するかということである。
この「余里」の扱いによって、邪馬台国の位置が大きく変わる可能性がある。
『魏志倭人伝』を著した陳寿は、魏の使節団が残した里数記録に基づいて数値を書いたと考えられる。
使節団の記録によれば、ソウルから不弥国までの距離は「余里」を省いて合計一万七百里である。ここに「余里」という誤差を何パーセントか上乗せすれば大体間違いないだろうと考え、「一万二千余里」としたのではないか。
つまり、使節団の実測数値である一万七百里に対し、約11%の誤差を上乗せしていることになる。
これが、ソウルから邪馬台国まで一万二千余里の実体ではないかと推測できる。
問題点その3:水行十日陸行一月

画像:イメージ 筆者作成
不弥国までは具体的な里数が書いてあるにも関わらず、その先はかかった日数で表現されている。
村雨氏はこれについて「不弥国から邪馬台国までの距離が、百里(約14キロ)に満たなかったからではないか」と推測している。
また、⑩の「水行十日、陸行一月」は、ソウルから邪馬台国の総日程を表したものだという。
つまり、「水行と陸行を合わせて40日かかった」ということだ。
魏の使節団が邪馬台国へ派遣された当時は、まだ磁石も羅針盤もなかったため、航海は日のある時間帯に限られた。夜はどこかで停泊していたと考えられる。
一日に進める最大の距離が千余里だったと仮定すれば、水行十日は説明がつく。
ソウルから釜山までは海岸沿いに進んでいき、水行で七千余里。
釜山から末盧国までは前述したとおり、計三千余里なので、一日千余里進めば水行十日だ。
また、陸行一月については前述のとおり、邪馬台国は不弥国から百里にも満たないすぐ近くの距離にあったが、経由した各国に数日滞在していた可能性もあるだろう。
伊都国には「一大率」という防衛省兼外務省のような機関があったため、伊都国には十日から二週間近く滞在した。
女王との謁見の下準備や荷物検査などでも日数を要すため、ソウルからだいたい一月くらいはかかるであろう。
これが、村雨氏の陸行一月の考察である。
邪馬台国の所在

画像:宇佐神宮 CC ja:User:Sanjo
さて、以上を踏まえて末盧国(神湊を含む宗像市)以降の各国が、現在のどの辺にあったかを当てはめてみよう。
④伊都国
現在の北九州市全体を含む周辺地域で、一大率は豊前市付近にあったと考えられる。
関門海峡に面しており、地理的にも重要な機関を置くのに最適である。
⑤奴国
現在の大分県中津市周辺。
漢委奴国王の金印については、「奴国で反乱が起きた際に、権力者が金印を持って志賀島まで逃げたのではないか」という説もある。
⑥不弥国
現在の豊前長洲付近。
邪馬台国の玄関口であったと考えられる。
⑦投馬国
村雨氏の著作には投馬国についての記載はないが、宮崎県西都市説や鹿児島県西部説などがある。
実際には使節団は投馬国に行っておらず、現地の倭人に聞いた情報だという説もある。
⑧邪馬台国
現在の大分県宇佐市周辺。
宇佐神宮には中央に「比売大神」という女性が祀られており、宇佐神宮が建っている菱形山は実は大規模な古墳である。
このことから、「邪馬台国宇佐説」では「宇佐神宮は卑弥呼の墓ではないか」という意見が多い。
おわりに
村雨氏は「邪馬台国があった場所は宇佐で間違いない」としているが、宇佐神宮が卑弥呼の墓であるという説は否定している。
これについては、また改めて別の機会に紹介させていただく。
参考文献 :
「ヤマタイ国はどこへ行った」村雨賢次
文 / 小森涼子
私は邪馬台国は無かったと考えています。
大月氏国との同盟をとりつけ蜀を東西から挟み討ちにすることに成功した曹爽、これに対抗する司馬懿が、邪馬台国をでっち上げた、と考えています。
南方海上にあるとした邪馬台国ならば呉を挟み討ちできる、と魏皇帝曹叡に進言したのです。
そのため、距離や方向がでたらめなのです。
漢の時代には、ローマに使節を派遣するほど地理学に長けていたのに、魏になって急にあやふやな地理を持ち出すでしょうか。
したがって、邪馬台国は司馬懿のでっち上げ、という考えでおります。いかがでしょうか。
でっち上げの文献を 隋書倭人伝他多くの文献で採用するでしょうか?
内容には 多くの疑問が残りますが 一つ一つ調べて行けば 解釈できると思います。
①距離は 1千里が70㎞くらいである事。
②戸数からは、【有屋室、父母兄弟臥息異處】から、1万戸=1.2万人の人口(子は母親と同居)
③一大卒は、卑弥呼の弟である事。
④卑弥呼は、邪馬壹国を離れて 伊都国に住んでいた事。【少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人】
⑤【收租賦、有邸閣】から当時の倭国は 中央集権が確立していない。【草木茂盛、行不見前人】その為 国と国を結ぶ幹線道路は整備されていない。=陸行は、非情に難しい。
⑥狼・熊・毒蛇・毒虫・棘など危険な陸行をしなければ到着出来ない所に 邪馬壹国が在った。=嘉麻・田川・添田・赤村・筑前・宇佐が邪馬壹国(宇佐が首都)
⑦船の方が、食料調達・宿舎・危険生物回避など便利な上、馬が無い当時は運搬手段に長けている。
⑧宗像・遠賀・門司・企救半島は、大和朝廷+出雲国の支配下(宗像から沖ノ島を通り朝鮮半島に向かうルートを取っていたが、本来なら松浦半島から壱岐に向かいたかったが、女王国に妨害された。
⑨卑弥呼は共立された時、わずかしか取れない穀物の税を貰うより 伊都国の検閲権を求めた。
2025年月3月6日時点での考察
ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。
邪馬壹国論争が、何故 数百年も続いているのでしょうか?
私は、魏志倭人伝に興味を抱いたのが1年前でした。定年後 暇を持ち余していたところ 近所の翁が 福岡県小郡市力武の竈門神社 が、卑弥呼の墓だと言われたのが 興味を持つきっかけでした。確かにその神社は 丸い古墳の上に建ってい居ますし【徑百餘歩】直径100歩(100股=70m)以上で、80mくらいあります。
それだけで良かったのですが、魏志倭人伝での記載で 生口と奴婢を使い分けている点に疑問を抱き 生口とは奴隷のことか?と思っていましたが、【狥葬者奴碑百餘人】の奴婢との違いが分からず 調べていたら 生口=食用奴隷 との記述を発見しました。確かに今の文献には書き難いことで、少し誤魔化す記載です。そういえば、昔のテレビ番組で、パプアニューギニアに人食い人種が居ると言うドキュメンタリー番組でした。肌が黒く・顔や体に入墨を入れ・シャーマンの占いで村を統治する種族です。そう 邪馬壹国の倭人そのものです。東北の縄文人の埴輪の顔に入れ墨が彫られています。そして、wikipediaで 倭人を広域で見ると 東シナ・南シナ海のかなり広い範囲での海洋民族(=当然 南方系民族も含む) その上 日本列島に渡って来た先祖の中に黒潮に乗って来た南方系民族が含まれていた。
人食い人種が自分の先祖と思いたくない一心で 本当の邪馬壹国の場所を探し始めました。
多くの先人や先生方が 無数に意見を述べられていますが、大きく引っかかる点があります。
①何故近畿説の方は 東を南に書き間違えた。とするのでしょうか?最初は記載通りに探して どうしても 説明がつかないので 書き間違えているのでは?と考える方が自然なのに、結論(邪馬壹国は近畿でなければならない)ありきで 探すのでしょうか?
昔の偉い学者が唱えられ その弟子たちが継承していった。若しくは、近畿説の方が本が売れたり講演が多かったりする利益の為でしょうか?
箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がありますが、明らかに大きさや形が違います。宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」としされていますが、大和朝廷初めての前方後円墳で巨大な古墳を皇女に下賜したとも思えません。〔但し、卑弥呼と呪詛での戦いで敗れ 気が振れた倭迹迹日百襲姫命 の霊を恐れ孝霊天皇の為に造っていた墳墓を与えて霊を沈めようとしたなら理解できます〕。
②1里を〔古代中国では300歩が1里とされたと云われます。〕漢の時代には約400mくらいでした。その事から邪馬壹国の場所を400m✕12000=4,800,000m=4800kmと計算した。と云われますが、どうして〔100里=7㎞前後の根拠;狗邪韓國~對馬國1千余里、狗邪韓國から対馬の最北端まで60㎞くらいですし船を停泊できる所までで70㎞としました。對馬國~一大國1千余里、対馬で停泊した処から対馬を回り込み壱岐に向かえば70㎞弱となります。一大國~末廬國1千余里、壱岐を出発し松浦半島ま50㎞㎞くらいですが海岸沿いに東へ向かい検閲を受ける為唐津で停泊。この距離が合70㎞くらい。〕と書かれている箇所を蔑ろにするのでしょうか?
③陸行を1日20㎞とするのでしょうか?中国の漢時代の文献に陸行1日20㎞と書かれていても ここは日本です。中国の漢時代は中央集権が確立していて 税は首都まで運ぶ必要がある為 幹線道路は整備されています。当時の倭国の小国家間の道路は整備されておらず【草木茂盛、行不見前人】となっています。それも帯方郡からの使者が通る道でこの有様です。【收租賦、有邸閣】との記載から卑弥呼に年貢を運んでいたと勘違いされたのでは?小国間内だけの年貢貯蔵庫です。卑弥呼と弟は伊都国の検閲権を欲したと思われます。僅かしか生産されない年貢より交易の膨大な利権を欲した方が得です。卑弥呼は女王国(邪馬壹国)を密かに逃れ 伊都国に住み弟に指示を出していた。と考えれば 他人にあまり会わないなどの理由が分かります。でなければ 遠くから一大卒に指示が出来ません。もし、他人に一大卒を任せたら 膨大な利権を盗まれたり 反乱を起こされるでしょう。一大卒が弟しかありえません。
領土争いが絶えない小国家間の国境なら 崖崩れや倒木など敢えて整備しない筈です。現在の自衛隊でも行進スピードは 1日20㎞程です。ましてや熊・狼・山犬・毒蛇・毒虫・棘など多く 策食料現地調達・宿舎探しなど 陸行では大変でしょう。それより安全な船の中で寝たり 直ぐに逃げられるように川岸で食事をする方を選ぶでしょう。現代の私でも 裸足で山道を歩く事など想像もできません。雨の日には滑るので行動しません。陸行1日4㎞と考えるのが妥当な線でしょう。帯方郡からの使者が通るなら村々の接待で中々進めないと主張される方も居られますが、タダ飯だけ飲み食いして土産も渡さないのでしょうか?大陸の珍しい玉などお礼に置いて行く筈です。何処の遺跡にもそれらしき遺物は見られません。女王に渡す玉が減ってしまいますので、寧ろなるべく村に寄らない行程を選んだのではないでしょうか。
④季節を考慮していない。渡海するのですから 日が一番長い夏至前後と考えるべきでしょう。6月下旬は日本では梅雨時です。川の水嵩は増し 道路は寸断しているはずです。夏至の太陽は真東ではなく23度北寄りから上がります。当時の人は太陽が昇る方角が東です。その為 東との記載は東北東と見た方が正確かと思います。
⑤水行1日1千里と どうして言えるのでしょうか。朝から日が暮れるまで懸命に漕いで1千里。これは分かります。しかし、先の見えない方角に 誰が漕ぎだすのでしょうか?
先生の中には、出雲から朝鮮半島に向かうルートをさもありなんかのように唱えられますが、地球の果てがあると信じていた民が 先の陸地(島)が見えない方角など向かう筈がありません。海岸が見える距離でしか航海はしない筈です。
死ぬ気で漕ぐから1日1千里漕げるのです。連続で幾日も漕げません。1日漕いだら数日は休息が必要でしょう。その為1千里(70㎞)以内に停泊できる陸地か島が必要です。
⑥【以婢千人自侍】下女千人を自ら侍らせる必要があるのでしょうか?老婆1人を1千人で世話をするなど考えられません。10人で充分です。では何をする人でしょうか?ハッキリ言って女王の権威付けです。伊都国が徴収した通行料=生口を売り買いしていたのでは?「通行料の代わりに 渡海する船の奴婢や生口の半分を置いて行け」や「帯方郡への土産に連れて行きませんか?」など人の売買をしていた可能性はあります。又、【若行者吉善、共顧其生口財物】としても多すぎます。その上 食べさせるだけで大変です。1千人も抱えておく方が無理な話です。多分 ホラを吹いたのでしょう。
⑦7万戸の錯覚 弥生時代の人口をWikipediaで調べると60万人と書かれています。1戸=5人と考えて7万戸=35万人と云われ、魏志倭人伝に記載がある戸数全部で15万9000戸余です。15万9千戸×5=79万5千人になります。計算が合いません。ましてや邪馬壹国の海を渡った東に同族が居ると記載してあります。
【有屋室、父母兄弟臥息異處】との記載から母子は同居していたと考え1戸あたり1.2人の居住と考えました。15万9千戸×1.2人=19万800人 庶民は、茅葺の小さな竪穴式住居に住んでいた筈です。その上 住民台帳等ある筈も有りませんので 約〇万戸くらいの表現でしょう。いちいち 絶対7万戸と書いてあるのだから7万戸と主張する方がおかしいのです。特に中国の文献は 赤壁の戦いの船数や南京大虐殺の人口なども大げさに吹聴する癖があります。記載した陳寿の立場を考え程々に考察しましょう。
魏志倭人伝通りに旅をしてみると 距離方角で奴国までは素直に着きます。次の【東行至不彌國百里】東へ7㎞で不弥国に着いたと記載されています。【有千餘家】の小さな小国に何故立ち寄ったのでしょうか?近畿説を取る名が通った先生の意見では不弥国は、宗像だと思うとの意見を頂きました。理由は、宗像神社は、海を祀る神社で立ち寄り必要があった。との主張です。奴国を那珂川町だとすると宗像まで40㎞も有ります。500里以上です。5倍も距離を間違えるでしょうか?
先生の説では、末廬國を宗像とされていますが、海流を考えると行きはよいよい帰りは、時速4㎞の海流に逆らい1千里(70㎞)を漕ぐのでしょうか。帰りは松浦半島から壱岐に向かったと主張されるのであれば、何故 近い壱岐~松浦半島のコースを取らないのでしょうか。私は、壱岐から松浦半島の波戸岬付近に到達したが 上陸できず 唐津付近まで移動して上陸した。(波戸岬からは 伊都国の水先案内人が、唐津の港まで誘導した)この間の距離が1千里(70㎞)だと考えました。
もし、宗像が不弥国なら【南至投馬國、水行二十曰】との関係性が出てきます。宗像のそばに遠賀川の巨大な河口があります。素直に南に水行すると考えるべきではないでしょうか。勝手に南を東へ書き換えるのは 探究者として如何なものでしょう。
近畿説を取るのならどうしても宗像を重視する必要がありますが、たとへば大宰府・奴国・伊都国の民は、宗像を重要視するでしょうか?松浦半島から壱岐→対馬と渡る民にとって 宗像はそんなに重要な場所では無いと思われます。
宗像神社を祀ったのは 大和朝廷や出雲の民だと考えました。
私は、不弥国を宇美と考えました。距離と方角が宇美周辺に当たるからです。奴国から南へ向かい御笠川を上る為に 不弥国で葦船を造っていたところ梅雨の長雨で水嵩が治まらず、邪馬台国へ向かうのを諦めて伊都国に引き返した。と考えました。投馬国と邪馬壹国への行程は倭人の案内役から聞いただけだと分かります。何故なら、今まで里での距離がここから急に日数に変わっているから(倭人は里を理解しない)。
本来なら 多々良川を上り篠栗をとおり飯塚に向かうのが早いのだが、そこは他の勢力(安曇族)下にあったので、大宰府まで御笠川を上った。投馬国へは宝満川を下り有明海に向かう。山門・妻郡・吉野ケ里の広域が、投馬国で最初の方は山門・妻郡に首都を置いていたが、狗奴國から侵略を受け吉野ケ里に都を移す。
邪馬壹国へは、大宰府まで御笠川を上り そこから 東へ陸行する。(西は伊都国から室見川を上るが、その後のルートが分からない。多久市などもあるが、7万戸と云う程の集落は無い。南の朝倉や日田に向かうには有明海まで出て筑後川を上った方が早い。わざわざ歩く行程を選ぶはずが無い。狼などを恐れながら無理して陸行しない。残りは東しかない。)大宰府から田川をとおり赤村・宇佐方面に向かう。その道中全てを邪馬壹国内と考えれば7万戸もあり得る。かなり危険な道のりで 帯方郡からの使者を案内したくなかった。事が分かる。
【女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種】【次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡】の記載から邪馬國=邪馬壹国の南や内陸にも女王国同盟国家が在る事が分かる。
左の写真は吉野ケ里の民家復元である事から魏志倭人伝の【有屋室、父母兄弟臥息異處】と矛盾するので、時代が少し違うように見える。(当時の稲穂狩りは、文字通り稲穂を切り取るだけで、藁を狩るのは鉄鎌が普及してから。藁ぶきの家など考えられない。)
私が小学校のころ(昭和40年ごろ)近くに在った縄文人居住跡に入った事があったが、2坪も無く狭く確かに1人か2人が住むだけの葦葺き三角錐の家だった。弥生時代になったからといって 急に家屋が大きくなって部屋が幾つもある住居に一般平民が住めるはずも無い。
結論
陸行は、危険なので 30日も陸行しなければ辿り着かない所に邪馬壹国は在ります。
奈良・纏向に行くのに大和川を使えば、30日も陸行する必要はありません。船を使えない場所でしかありえません。川を上り下り出来ない場所。で探すと日本で1箇所だけ探し当てました。
赤村・宇佐 です。
最初は、宇佐や日向に向かうのに 関門海峡を通るか西回りで長崎~鹿児島ルートを取ろうと考えましたが、敵対する勢力下にあった。
なぜ 関門海峡を通れなかったのか?出雲勢力&近畿勢力&瀬戸内海勢力が、朝鮮半島に渡るには、宗像~大島~沖ノ島~朝鮮半島のコースが最短です。しかし、安全を考えると松浦半島~壱岐~対馬~朝鮮半島ルートが潮の流れからして安全でしょう。要は 宗像ルートを取る勢力下に関門海峡は在った。と推測できます。現在の粕屋郡から宗像を安曇族(出雲族と姻戚関係あり?)、遠賀川から門司・企救半島を遠賀川流域族(秦族では?)と考えています。
では、長崎ルートは 狗奴國傘下に属します。菊池平野から天草・本渡・島原と非常に近く 有明海の制海権を有しています。狗奴國が朝鮮半島に渡るルートは長崎五島列島~済州島(180㎞)あり渡れません。鹿児島~琉球列島~台湾 ルートになり 朝鮮半島に渡らず 直接中国本土に向かったと思われます。狗奴國も松浦半島ルートを欲したと思われます。
白村江の戦い・秀吉も松浦半島から出航していますし、刀伊の入寇・元寇も対馬~壱岐ルートを取っています。このルートが安全で速いのです。わざわざ沖ノ島~宗像ルートを取る必要も無いのです。ましてや 出雲説を唱えられているような海流に乗ったなら出雲が早いなら 白村江の戦いで敗れた軍勢は出雲に辿り着いたのではないでしょうか?
どうしても邪馬壹国と大和朝廷を繋げたいのなら 邪馬壹国と九州大和朝廷を繋げた方が、理に適っていると思います。秀吉は別にして 神功皇后は、松浦半島から出兵しています。近畿の大和朝廷は朝鮮に向かう振りをしただけです。大敗した九州王朝は力を失い 近畿の大和朝廷が力を付けて 九州王朝は滅ぼされます。これが記紀の編纂に当たり書き換えられた歴史ではないでしょうか。
これが、素直に倭人伝を読んで出した 私なりの結論です。
卑弥呼たちの邪馬台国の倭人は、大和朝廷から滅ぼされた。と思いたい。