西洋史

「ヒトラーはなぜ画家になれなかったのか?」人間に無関心だった独裁者の絵画とは

アドルフ・ヒトラーは、ナチス・ドイツを率いて第二次世界大戦を勃発させ、ユダヤ人に対する大量虐殺「ホロコースト」など非人道的な政策を実行した、20世紀最大の独裁者として知られる。

画像 : ヒトラー public domain

第一次世界大戦敗戦で疲弊したドイツ国民の心を掌握し、ドイツを一党独裁国家に仕立て上げたヒトラーだが、学生時代の彼は、独裁者どころか政治家すら目指していなかったといわれる。

若き日の彼が、幾度もの挫折を味わいながらも目指していた職業、それは「画家」だった。

ヒトラーの芸術への関心は、ナチス党首就任後も変わらず、自分の本質は「政治家ではなく芸術家である」と信じ続けていたという。

今回は、画家になり損ねて独裁者になったヒトラーの生い立ちや、青年時代に手掛けた絵画、さらには政策にも表れた「芸術家」としてのこだわりについて、掘り下げていきたい。

父との不仲と学生時代の挫折

画像:ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真 public domain

政治家としてカリスマ的な支持を集めたヒトラーも、その少年時代は決して輝かしいものではなかった。

彼は決して成績優秀な生徒ではなく、教師からの評価も芳しくなかったとされる。

父のアロイス・ヒトラーは、オーストリア帝国の税関職員として堅実に出世した人物であり、封建的で厳格な性格で知られていた。
若きヒトラーはこの父に対して早くから反抗心を抱いていたとされ、小学生のころからしばしば口論になっていたという。

父は息子を公務員か技術職へと進ませたがっていたが、ヒトラーは芸術家への夢を抱いており、14歳で実科中等学校に入学したものの、勉学に対する熱意を示すことはなく、出席率も悪かった。

この学校は、ギムナジウム(大学進学を前提とした中等教育機関)に比べれば、実務的な教育を目的とした学校だったが、それでもヒトラーにとっては居心地が悪かったようである。

やがて彼は二度にわたって留年し、最終的には退学処分を受けている。

その後、別の学校に編入するも、再び成績不振と素行不良によって退学を余儀なくされた。

結果として、ヒトラーの最終学歴は初等教育(小学校)卒業にとどまり、中等教育課程を修了することはなかった。

リンツでの優雅な無職生活

画像:1898年から1905年までヒトラーが家族と住んだリンツ郊外レオンディングの家 wiki c Kim Traynor

父・アロイスは1903年、ヒトラーが14歳のときに病没した。

その後、ヒトラーは前述したように学業を中断し、母・クララと妹とともにリンツに戻ったが、再び学業への意欲を見せることはなかった。

父・アロイスは上級事務官として一定の財産を遺しており、遺族がすぐに困窮することはなかった。
ヒトラーも働くことなく生活を送ることができ、当時は無職でありながら身なりも悪くなかったとされる。

それでも家長を継ぐべき息子が定職にも就かないことに、母のクララは心を痛めていた。

本来なら学業を辞めた青年は、何らかの仕事に就くための訓練を受けることが当時の通例であった。
しかしヒトラーは心配する母に「画家として生計を立てていく」と語って譲らず、「ただ食い扶持を稼ぐための仕事」を軽蔑していたという。

画家になる夢は母だけではなく、いつも行動を共にしていた友人や、片思いした女性に対しても打ち明けていた。

1907年、18歳になったヒトラーは財産分与の権利を得て、当時の郵便局員の年収にあたる遺産を手にする。
この頃、クララは乳がんを患い、闘病生活に入っていた。

しかしヒトラーは、画家になる夢を実現させるために、病身の母に経済的な支援を頼んで仕送りの約束を取り付けると、美術の道を志して単身ウィーンへと旅立った。

ウィーン美術アカデミーを受験するも落第

画像:ウィーン美術アカデミー wiki c Peter Haas

画家としての将来に希望を抱いていたヒトラーは、1907年9月、ウィーン美術アカデミーの入学試験を受けた。

実技による予備試験には合格したものの、本試験で提出したポートフォリオには人物の頭部デッサンがほとんど含まれておらず、審査官から不十分と判断され、不合格となってしまった。

まさかの不合格という結果はヒトラー自身も想定しておらず、病身の母や介護に忙しい姉妹や叔母に、すぐに伝えることはできなかったという。

試験の翌月にはクララの病状が悪化し、ヒトラーは急ぎ帰郷したが、1907年12月21日、母は乳がんで死去した。
いつまでも定職に就かない息子に失望しつつも、愛情を注ぎ続けてくれた母の死に、ヒトラーは大いに打ちひしがれた。

翌1908年、ヒトラーは父の遺産の大部分を相続し、国家からの遺児年金も受けながら再度ウィーン美術アカデミーの門を叩くが、再び不合格の通知を受ける。

やがて彼は、リンツ時代の友人たちとも疎遠になり、遺産を取り崩しながら絵葉書や風景画を描いて生計を立てる放浪生活に入っていく。

その一方で徴兵忌避の疑いをかけられ、1909年には一度逮捕された。
だがザルツブルクでの徴兵検査では「心身虚弱」と診断され、不適格と判定されている。

第一次世界大戦が勃発すると、ヒトラーは志願兵としてバイエルン陸軍に入隊し、前線で伝令兵として従軍。
戦功を挙げて勲章を授与され、社会的な承認を得る。

戦後の混乱のなかで「理想の国家」の実現を志すようになったヒトラーは、政治活動の世界へと足を踏み入れていくことになるのである。

ヒトラーの絵に対する評価

画像:ウィーン国立歌劇場 アドルフ・ヒトラー画(1912年)public domain

ヒトラーが1907年に受験したウィーン美術アカデミーでは、建築物の描写に関しては一定の評価を得たが、ポートフォリオに人物デッサンを入れなかったことが不合格の決め手となった。

しかし、そもそもヒトラーが好んで描いていた写実的な絵画は、当時すでに時代遅れな芸術とみなされていた。

すでに写真技術が浸透していた当時のヨーロッパにおける芸術の流行は、目に見える物をそのままキャンバスに映し取った写実的な絵画ではなく、人物の内面を含めて抽象的に表現する「世紀末芸術」が主流となっていたのだ。

例えば、同じオーストリア出身のグスタフ・クリムトは、1908年に代表作『接吻』を発表し、華やかで象徴的な作風で高い評価を得ていた。

また、ヒトラーが受験した前年にはエゴン・シーレがアカデミーに入学し、やがてクリムトの薫陶を受けて、前衛的な人物画を次々と発表するようになる。

画像:エゴン・シーレ「自画像」(1912年) public domain

こうした中で、ヒトラーの描く絵は時代の流れに逆行していた。

さらに、建築物の緻密な描写に比べて自然や人物の描写が甘かったこともあり、アカデミーの教員からは画家になるよりも建築家としての進路を推奨されたのだ。

しかし、建築を学ぶには中等教育を修了している必要があり、すでに退学していたヒトラーにはその資格がなかった。

学力や規律面で再び学校に戻る意思もなかった彼は、ウィーンでの将来を断念せざるを得なかったのである。

政治に表れたヒトラーの芸術に対する意識

画像:聖母マリアと聖なる子イエス・キリスト アドルフ・ヒトラー画 (1913年) public domain

ヒトラーが生涯抱いていたとされる芸術家としての自負とこだわりは、ナチスの政策にも表れている。

ナチス総統として大衆の支持を獲得できた背景には、徹底したイメージ戦略があった。

ナチスは人々の心を掴むために、難しい言葉や理屈は使わず、簡潔かつ強力な言葉と、一見しただけで強烈な印象を与えるデザインを多用した。

そしてナチスの代表者たるヒトラーは、父の遺産と恩給で豊かな生活を送っていたことは隠し、貧困の中で立ち上がった労働階級の代表者として振る舞った。

民衆の心を掌握するための要であった党大会は、人々の判断力が疲労で鈍る夕方以降に開催し、わかりやすい簡潔な言葉を使い、時には沈黙を効果的に用いて、一挙手一投足にまで綿密な計算を配して演説を行った。

その演説が行われたニュルンベルクの党大会会場は、ヒトラーが強い信頼を寄せた建築家アルベルト・シュペーアによる設計で、建築物そのものにも彼の美学が反映されていた。

画像:ヒトラーとシュペーア(1938年) wiki cc

ヒトラーは、シュペーアを単なる優秀な部下というよりは、建築に関する意見を対等に交わし合える腹心として扱っていたようである。
シュペーアが総統室を訪れた際は、他の仕事を投げ出して建築話に花を咲かせていたという。

ナチスが掲げた「アーリア人種」の概念は、本来の語族的な定義を離れ、金髪・碧眼・長身といった外見的特徴によって、ドイツ民族の優越性を象徴的に主張するものとなった。

軍服や制服類も、機能性以上にデザイン性が重視されており、金髪碧眼で体格のよい親衛隊員たちに着用させることで、ヒトラーが掲げた「理想の人種像」を視覚的に表現する役割を担っていた。

そして、そうした「演出」の頂点に立ったヒトラー自身は、威厳ある指導者として舞台に立ち、貧困と疲弊にあえぐ民衆から熱狂的な崇拝を集めるようになっていった。

もっとも、ナチスのプロパガンダがここまでの効果を上げたのは、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの巧妙な手腕によるところが大きいとされている。

画像:『スラヴ叙事詩展』(1928) アルフォンス・ミュシャ画 public domain

ヒトラーは自分の才能を認めなかったウィーン美術アカデミーや芸術界に対しても、権力を利用して圧力をかけている。

ナチス・ドイツは1938年のオーストリア併合(アンシュルス)以降、モダンアートや前衛芸術を「退廃芸術(Entartete Kunst)」と位置づけ、強制的な収蔵品の押収や作者への弾圧を行った。

その対象には多くのユダヤ系芸術家も含まれており、中には亡命に失敗し命を落とした者もいた。

押収された作品の一部は、1937年から開催された「退廃芸術展」において、嘲笑と侮蔑の対象として一般公開された。

この展示はドイツ各地を巡回し、ナチスが「堕落した芸術」と位置づけた作品をあえて晒すことで、国民の文化的嗜好を統制しようとするプロパガンダの一環でもあった。

こうしたナチスによる芸術弾圧は、ドイツやオーストリア国内にとどまらず、併合・占領地域にも及んだ。

たとえばチェコの国民的画家として知られるアルフォンス・ミュシャも、ナチスによるチェコスロバキア占領後にゲシュタポに逮捕されている。

彼は「民族意識を煽る芸術家」として尋問を受けた後に釈放されたが、その直後に体調を崩し、まもなく病没した。

“芸術家”ヒトラーが描いた理想の国家

画像:ミュンヘン王立ホフブロイハウス(1913年5月 – 1914年8月) アドルフ・ヒトラー画 public domain

ヒトラーの絵画は、一人ひとりの人間に対する関心が薄く、建築物のディテールにばかり力が注がれ、全体の調和やバランスを見失いがちだった。

独裁者としてもこの傾向は表れており、人種を優劣で判断して個人の生命を軽視し、自らの理想を目指して突き進んだばかりに全体像を見失い、着実に窮地へと追い込まれていった。

さらには敗戦の色が濃くなった1945年春、自国の国民の戦後の生活すらも顧みずに「ネロ指令(焦土作戦)」を出してドイツ国内の産業を破壊し尽くすように命じた。

これは「ドイツが敗れるのであれば、その文明ごと滅ぶべきだ」という極端な思想に基づく命令であった。

この指令は、当時の軍需大臣アルベルト・シュペーアによって密かに無効化されたが、ヒトラーが敗北後のドイツ国民の生活にまったく関心を示していなかったことは明らかである。

ソ連軍に包囲されたベルリンでは、側近たちが次々と脱出する中、ヒトラーは最後まで地下壕にとどまり、逆転勝利の幻想にしがみついていた。

しかし最終的には現実を受け入れ、もっとも愛していたとされる飼い犬ブロンディに毒を盛って薬の効果を確かめたのち、1945年4月30日、半日前に結婚したエヴァ・ブラウンとともに自殺した。

人間に興味を持たなかったヒトラー

画像:シュテファン大聖堂 ルドルフ・フォン・アルト画(1832年) public domain

第二次世界大戦終戦後、ヒトラーが生前に描いた絵のうち数10点は高額で売買されたが、それは「独裁者ヒトラー」が描いた絵だからこそ高値が付いたものである。

いわば凶悪犯罪者の絵が高額で取引されることと同じで、芸術性の高さが認められたわけではない。

ある美術評論家が、作者の名を伏せられてヒトラーの絵の批評を求められた際は、建築物の絵に関しては「素晴らしい」と賞賛したが、人物画については「作者が人間に少しも興味を持っていないことがわかる」と評したという。

これは結果論に過ぎないが、ヒトラーが独裁政権を率いる政治家として歩んだ経過と末路は、彼が若き日に描いた作品に既に暗示されていたのかもしれない。

彼が画業の師と仰いだルドルフ・フォン・アルトのように、有象無象の人々の生活を活き活きと描けるような画家だったなら、少なくとも無慈悲な大量虐殺が実行されることはなかったのかもしれない。

参考 :
村山秀太郎 (著)『暴虐と虐殺の世界史 人類を恐怖と絶望の底に突き落とした英傑ワーストイレブン
橘 龍介 (著)『歴史上のカリスマリーダーに悪人が多い理由
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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