現代において、湘南の海岸は、サーフィンや海水浴を楽しむ人々で賑わう、解放感あふれるリゾート地というイメージが強い。
しかし、この美しい海岸線が、かつて米軍の訓練地として使用されていたという歴史を知る人は、もう多くはないだろう。
特に、第二次世界大戦後の占領期から冷戦時代にかけて、この地域は日本の安全保障上の重要な拠点であり、その歴史的背景は、現在の湘南の風景からは想像もつかないほど重いものがある。
戦後の混沌と米軍基地の広がり

画像 : 鵠沼海岸から見た江の島(神奈川県藤沢市)Quercus acuta CC BY-SA 4.0
第二次世界大戦の終結後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の管理下に置かれ、占領期を迎えた。
この時期、米軍は全国各地に駐留地や訓練施設を設け、その一部は神奈川県の湘南海岸にも及んだ。
とくに藤沢市・辻堂西海岸から茅ヶ崎市・汐見台にかけての一帯は、旧海軍の演習地が接収され、連合軍(米軍)の上陸や爆破、砲撃などの訓練に使用されたと記録されている。
一方、鵠沼海岸では米兵がレジャー目的で訪れたことが伝えられ、「GIビーチ」や「東洋のマイアミ」と呼ばれた時期もあった。
このように、同じ湘南でも軍事利用と占領文化が隣り合わせに存在していたのである。
終戦直後の日本社会は深刻な物資不足と混乱の中にあり、人々は生活再建に追われていた。
そのような状況下で、日常の海岸が外国軍の管理下に置かれ、訓練の轟音が響く光景は、多くの住民に不安と屈辱、そして複雑な感情を抱かせた。
海岸という公共の場が占領軍によって制限されていた現実は、日本が主権を回復し、平和な生活を取り戻すまでの道のりがいかに険しかったかを象徴している。
地元住民の抵抗と土地返還への道のり
米軍による海岸の使用は、地元住民との間に度々摩擦を生じさせた。
特に、漁業を営む人々にとっては、訓練による漁場の制限や安全性の問題は死活問題であった。
また、海水浴場としての利用を望む住民や観光業者にとっても、米軍の存在は大きな障害となった。
こうした状況に対し、地元住民や自治体は、米軍訓練地の返還を求める運動を粘り強く展開した。
平和憲法の下、主権回復を目指す日本の歩みとともに、これらの運動は次第に力を得ていった。
特に、1950年代から1960年代にかけて、全国的な基地問題に対する関心の高まりと相まって、湘南地域の海岸利用に関する問題は、地域社会の重要なテーマとなった。
返還交渉は容易ではなかったが、住民の継続的な要望と、日本の国際的な地位の変化、そして米軍の戦略的な見直しなど、様々な要因が絡み合い、海岸の利用形態は徐々に変化していった。
最終的に、これらの海岸線は、訓練地としての役目を終え、本来の姿であるレクリエーションの場として住民の手に戻されることになった。
平和の象徴としての現在の海岸線

画像 : 七里ヶ浜・江の島と20形電車 (鎌倉高校前駅 2019年6月26日)くろふね CC BY 4.0
現在、湘南の海岸は、若者から家族連れまで、多くの人々が訪れる憩いの場となっている。
その開放的で自由な雰囲気は、過去に軍事利用されていたという歴史からは想像もつかないほどだ。
しかし、この美しい風景の裏には、戦後の混乱と、地域の平和と自由を取り戻そうとした人々の努力が隠されている。
かつて米軍の訓練地であったという事実は、日本の近代史における占領と主権回復という重要なテーマを内包している。
いま穏やかな光に包まれる湘南の砂浜の下には、かつての緊張と、平和を取り戻そうとした人々の祈りが静かに眠っている。
この過去を知ることは、現代の平和と自由の尊さを改めて認識するための、重要な教訓となるだろう。
参考 : 総務省「戦災等の状況に関する資料(神奈川県・藤沢市)」 藤沢市デジタルアーカイブ「辻堂海岸の記憶」
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部
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