事件史

【昭和の未解決事件】消えた風船おじさん 〜太平洋横断を夢見た「ファンタジー号事件」とは

画像:pixabay

幼い頃、ふわふわと宙に浮かぶ風船で空を飛んでみたいと考えたことがある人は、決して少なくはないだろう。

風船おじさん」こと鈴木嘉和氏は、そんな無謀な夢の実現に果敢に挑戦し、飛行の途中で消息を絶った人物だ。

この「ファンタジー号事件」は、行方不明の末の失踪宣告という残念な結果になってしまったが、もともと冒険には危険が付き物であるはずだ。冒険家は前人未踏の挑戦を危険を省みずに行うからこそ、その勇気を讃えられるものだろう。

しかし「風船おじさん」について調べてみると、その勇気を讃えるよりも「借金〇億円」「無許可飛行」などの不穏な言葉がやたらと目に付くのである。

どうもこの冒険の計画はとても無謀かつ破天荒なもので、ファンタジー号は良くも悪くも様々な背景を背負って、はるかなる太平洋へと飛び立っていったようである。

今回は、昭和の未解決行方不明事件「ファンタジー号事件」について触れていきたい。

風船おじさんこと鈴木嘉和の略歴

画像:pixabay

後に「風船おじさん」の呼び名で世に知られることになる鈴木嘉和氏は、1940年8月21日に東京都のピアノ調律師の家に生まれた。

本人も調律師を目指し、国立音楽大学付属高等学校を卒業後にヤマハの契約社員となって、東京都の小金井市でピアノ調律業を営んで生計を立てていた。

44歳の時、鈴木氏は音楽教材販売会社を起業して、ピアノ向け教材の製作および販売を始めた。翌年の7月には日比谷公会堂で音楽会を主催して、フィナーレには風船を飛ばす演出を行ったという。

この風船を使う演出は恒例となり、後に開催した音楽イベントでは最後に風船を飛ばすのが定番となった。

起業から2年後の1986年には銀座に音楽サロン「あんさんぶる」を開き、麻雀荘や飲食店経営にも乗り出したが商売はうまくいかず、1990年には4~5億円の負債を残して会社は倒産、たちまち借金苦に陥ってしまった。

横浜博覧会で立てこもり事件を起こす

画像:横浜博覧会で営業運転を行ったHSST wiki c Burua-chan

会社が倒産する前年の1989年3月、鈴木氏は横浜のみなとみらいで開催された横浜博覧会で、ある事件を起こした。

鈴木氏の会社は横浜博覧会に飲食店や土産物店を出店したものの、店舗の立地が悪く、集客には大きな不利があった。

出店場所の近くには一般来場者向けの駐車場がなく、最寄りの駐車場は団体バス専用だったため、マイカー利用の来場者が訪れにくい状況だった。さらに、夏休み期間中には団体バスの利用も減少し、来客数は一層落ち込んだ。

加えて、博覧会そのものの集客が当初の予想を大きく下回ったことで、売上は計画を大幅に下回ってしまったのだ。

そこで鈴木氏は集客のために、横浜博覧会のマスコットの着ぐるみを自作し、自らその中に入って撮影会やサイン会を行った。

しかし10月の閉幕が迫ってきても、協会は客足の少なさへの対応や、駐車場の一般開放といった集客対策に動かなかった。

鈴木氏はついに業を煮やし、早朝4時から高さ30mの鉄塔に着ぐるみを持ってよじ登り、7時間ほど籠城するという騒ぎを起こした。

鉄塔に登った鈴木氏は、「団体バス駐車場を開放してね」と書かれた垂れ幕を掲げようとしたが、強風にあおられてうまく広がらず失敗に終わった。
異変に気づいた博覧会関係者が通報し、レスキュー隊が駆けつけて説得にあたったが、鈴木氏は着ぐるみを着たまま拒否の意思を示し、鉄塔の上を約1時間にわたり歩き回った。最終的には説得に応じて、はしご車で地上に引き降ろされたという。

この件については、当初博覧会協会が想定していた予想集客数や売り上げ見込みと、実際の数字が大きく乖離していたため同情の余地もある。鈴木氏は騒動を起こしたことで、博覧会協会事務局長から厳重注意を受けた。

事件後は協会と交渉して許可を得てから、自社独自の客寄せ方法としてヘリウム風船の浮力でロープにつないだゴンドラが高さ10m~20mほどに浮かぶ「空中散歩」というアトラクションを自費で設置し、1ヶ月で約2500人の来客を得られた。

横浜博覧会の最終日、鈴木氏は自作の着ぐるみを着てゴンドラに乗り込み、ロープを外して場外まで飛び出すと周囲に宣言した。

しかし「皆に迷惑をかけてしまう」と最後には思いとどまり、この時の飛行は断念している。

ヘリウム風船不時着事件

画像:是政橋(3代目) wiki c Rsa

事業の失敗により多額の負債を抱えるようになってから、鈴木氏は債権者に対し、風船を使って太平洋を横断し、その注目によって借金を返済すると語っていた。

そして会社倒産後の1992年4月17日、鈴木氏は、東京都府中市の是政橋付近の多摩川河川敷から、警察官の制止を振り切って、5mと2.5mのヘリウム風船を2個ずつくくりつけた椅子に座って飛び立った。

しかし、飛行直後におもりとして取り付けていた合計30キロの砂袋2個が外れてしまい、予定していた高度400メートルを大きく上回る5600メートルにまで急上昇してしまった。

5600メートルと聞くとあまりに高いので、5〜600メートルの誤記ではないかと思ってしまうが、これは間違いではない。

高度の上がりすぎを危険と判断した鈴木氏は、持っていた100円ライターでロープを焼き切り、5メートルの風船を切り離して高度を下げた。

高度は下がり、計画では千葉県の九十九里浜に到達する予定であったが、出発地点から約24km離れた東京都大田区大森西の民家の屋根に不時着、左手を負傷する程度で済んだ。

現場に駆け付けた警察官には謝罪したものの「次はハワイを目指すつもりだ」と語り、再挑戦することを誓っていた。

この時、不時着された民家の屋根は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる物損被害を受けたが、鈴木氏からは弁償どころか謝罪の挨拶すらもなかったという。

ファンタジー号事件

画像:pixabay

不時着事件から約7か月後の1992年11月23日、鈴木氏はヘリウム入りの風船をいくつもつけたゴンドラを「ファンタジー号」と名付け、この試験飛行を琵琶湖の湖畔で行うと公表した。

当初、ファンタジー号には直径6メートルの主力風船6個と、補助用の風船26個を使用する計画だった。
しかし諸事情により、出発時には主力風船は4個、補助風船もわずかな数に減らされていた。中には破れた風船もあり、鈴木氏はそれを粘着テープで応急修理して使用した。

試験飛行の会場には、鈴木氏に電話で呼び出された当時の同志社大学教授と学生7名、朝日新聞の通信局長、フジテレビのワイドショー取材班、鈴木氏の支持者らが集まった。

この日の名目はあくまでも、風船をつけたゴンドラによる高度200m~300mまでの上昇実験ということだった。運輸省は装備不足と安全性に対する疑問から飛行許可の申請は受理せず、あくまでゴンドラを地上に係留したままの試験飛行という条件で許可を出していた。

しかし鈴木氏は試験飛行前に、マスコミ対策のために家族がホテルに宿泊できるよう事前に手配をしており、最初からアメリカまでの飛行を強行しようとしていたと考えられる。

飛行開始後、ファンタジー号は一度高度120メートルまで上昇し、そのまま地上に降りてきた。
しかしその後、16時20分頃、鈴木氏は「いってきます!」と言い残して係留ロープを自ら外し、制止する周囲の声を振り切っておもりを地上に落とし、アメリカ・ネバダ州のサンド・マウンテンを目指して飛び立ってしまったのだ。

一部始終を見ていた見物人たちは呆れ果て、遠ざかっていく鈴木氏に対して手を振る者は誰1人としていなかったという。

鈴木氏の出発直後、テレビ局が鈴木氏に携帯電話で連絡を取ると「ヘリウムが少し漏れているが大丈夫だ」という返答があった。

ホテルに宿泊していた家族には、午後10時ごろに鈴木氏から連絡が入り、その後も1時間ごとに電話がかかってきていたという。

家族との電話で鈴木氏は「風船の様子がおかしいこと、想定していたよりも高度が上がらないこと、海上に出たこと」などを伝えた。

翌朝の6時には電話で妻に、海上で見る朝焼けの美しさを伝えたが、その次の通話を最後に鈴木氏の携帯電話は不通となった。

最後に妻が聞いた言葉は「行けるところまで行くから心配しないでね!」というものだった。

ファンタジー号と風船おじさんの行方

画像:ファンタジー号の捜索機となったファルコン900 public domain

携帯電話からの連絡が途絶えた24日の深夜、ファンタジー号に設置された非常用位置指示無線標識装置からSOS信号が発信され、25日の8時半には海上保安庁の捜索機が、宮城県金華山沖の東約800kmの海上を飛行中のファンタジー号を確認した。

鈴木氏は捜索機を確認すると手を振ったり座り込んだりしていたが、途中でSOS信号の発信をやめた。

ファンタジー号の高度は2,500mまで上がっており、高い時では4,000mにも達していた。

捜索機は約3時間に渡り鈴木氏とファンタジー号を監視したが、鈴木氏が手を振っていたこと、ゴンドラの中の物を落として高度を上昇させたこと、SOS信号も消えたことから、飛行継続の意思があると判断して追跡を中止した。

鈴木氏が無事であると聞いた妻や義理の娘たちは胸をなでおろしたが、その後、鈴木氏の消息は途絶えてしまう。
以後、ファンタジー号からSOS信号が発信されることもなかった。

家族から捜索願が出され、海上保安庁は12月2日にアメリカとカナダとロシアに救難要請を出したが、ファンタジー号も鈴木氏も見つかることはなかった。

その後もファンタジー号は残骸すら発見されず、鈴木氏も消息不明のままで、2000年に失踪宣告が確定した。

風船おじさんの本心

画像:島根県大田市(旧邇摩郡)仁摩町馬路町 琴ヶ浜(近影) wiki c SSandPowder

鈴木氏は生涯で3度結婚しているが、ファンタジー号に乗って飛び立ったのは3度目の結婚をした半年後のことだった。

3度目の結婚の相手は、2017年に逝去したピアニストの石塚由紀子氏である。

当時は鈴木氏の会社の共同経営者となっており、家が抵当に入っていたこともあって、鈴木氏が残した借金は彼女が払い続けていた。2人の間に実子はいなかったが、鈴木氏は妻の連れ子である3人の娘とは継父として良好な関係を築いていたようだ。

鈴木氏の失踪宣告が確定した2000年に、由紀子氏は著書『風船おじさんの調律』を出版し、話題を呼んだ。

鈴木氏は冒険に出る前に、自分自身に多額の生命保険をかけていることを、関係者や債権者に語っていたともいう。

ファンタジー号事件はその突拍子もない無謀な計画内容と、多額の借金を背負っていたという鈴木氏の背景から、冒険に見せかけた自殺と評されることもある。

しかし、鈴木氏がファンタジー号を飛ばして世間の注目を集めた動機は、島根県の琴ヶ浜の鳴き砂の保護を訴えるためだったとも言われている。

彼を最も近くで支えていた妻の由紀子氏は著書の中で「暗い世界を、夢を見れる時代に変えるために飛び立った」とも語った。

ファンタジー号も鈴木氏も行方知れずとなってしまった今では、琵琶湖湖畔から飛び立っていった鈴木氏の本心を、誰も知ることはできない。

参考 :
石塚 由紀子 (著)『風船おじさんの調律』他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

北森詩乃

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