【秦の始皇帝の娘】発掘された墓が物語る「恐ろしすぎる事実」とは?

秦の始皇帝

画像 : 始皇帝 public domain

人気漫画「キングダム」でもお馴染みの秦の始皇帝(嬴政)は、古代中国史において最も有名な人物といっても過言ではないだろう。

始皇帝は秦国を強大な国家に変革し、中国を初めて統一した偉大な政治家として後世にその名を残した。

そんな彼の陵墓である「始皇帝陵」は、今なお調査が進められており、その全貌は未解明のままである。
特に「兵馬俑」については、毎年新しい発見がなされ、世界中の歴史愛好家を魅了し続けている。

今回は「始皇帝の娘の墓」に関する、驚くべき発見について紹介したい。

始皇帝の子供たち

始皇帝はわずか13歳で王位に即位し、21歳の時に統治を開始した。

その後、38歳で中国全土を統一し、初めて「皇帝」を名乗った。しかし、49歳という若さで生涯を閉じるまで、彼が中国全土を統治した期間は11年であった。

画像 : イメージ 草の実堂作成

始皇帝が行幸中に病死した後、宦官の趙高(ちょうこう)は、丞相の李斯(りし)と共謀して遺言を改ざんし、太子の扶蘇(ふそ)を自決に追い込み、末子の胡亥(こがい)を二世皇帝として即位させた。

しかし、胡亥の治世では趙高との権力争いや粛清が続き、「陳勝・呉広の乱」をはじめとする反乱の引き金となり、秦王朝は急速に崩壊へと向かった。最終的には胡亥も趙高によって自害に追い込まれ、秦王朝はわずか15年で滅亡した。

『史記』によれば、始皇帝には12人の公子(息子)と数十人の公主(娘)がいたが、名が知られている公子は扶蘇、胡亥、公子高、公子将閭の4人である。

考古学者たちの推測では、始皇帝には33人の子供がいたともされるが、具体的な人数や名前についてははっきりとは分かっていない。

こうした背景からも、後継争いが熾烈を極めたことが想像される。
皇帝の座に就いた胡亥を除く全ての子供たちは、残酷に粛清され命を落としたのだ。

発見された娘の悲劇的な墓

1976年10月、考古学者たちは始皇帝の娘の1人である、嬴阴嫚(えいいんまん)の墓を発見した。

嬴阴嫚

画像 : 始皇帝の娘、嬴阴嫚(えいいんまん)イメージ 草の実堂作成

この墓は、秦陵の東側、上焦村の副葬墓群の一部として見つかった。

発掘された17基の墓のうち、8基が調査されたが、その中で最も注目されたのが「嬴阴嫚の墓」であった。
考古学者たちは、彼女の墓の異常さに驚愕したという。

嬴阴嫚の墓は、他の墓と異なり、人体が通常の状態で保存されていなかったのである。

彼女の遺骨は、手足と胴体が切断され、頭部と胴体も分離していた。さらに頭蓋骨には矢じりが突き刺さっていたという。

画像 : 嬴阴嫚の遺骨 南京市仙林大学 public domain

このことから、彼女が生前に極度の苦痛と非人道的な扱いを受けたことが推測された。

嬴阴嫚は、生前に拷問を受けてバラバラにされた後、埋葬された可能性が高い、という結論に至ったのである。

胡亥による兄弟姉妹への無慈悲な粛清

胡亥は即位後、兄弟姉妹に対して無慈悲な粛清を開始した。

画像 : 秦二世、胡亥。摄于曲江秦二世陵遗址博物馆。public domain

『史記』によれば、彼はまず咸陽の商業地区で12人の兄弟を処刑し、その後、咸陽東部でさらに6人の兄弟と10人の姉妹を轢き殺した。その処刑場の光景は目を覆いたくなるほど凄惨なものだったという。

また、胡亥は罪状を見つけられなかった兄弟たちを咸陽宮に幽閉し、最終的に宦官の趙高の指示によって彼らに自害を命じた。こうして兄弟姉妹たちは次々と命を落とし、その多くは残酷な方法で処刑された。

その中でも、唯一体面を保って死んだのは公子高であった。

公子高は、兄弟姉妹たちが次々と殺されるのを目の当たりにし、自ら命を絶つことを決意する。彼は、家族を巻き込むことを恐れ、父・始皇帝と共に驪山で殉死したいと胡亥に志願した。胡亥はこれに喜び、公子高の願いを受け入れたという。

こうして胡亥は、兄弟姉妹を次々に粛清していったが、彼の治世は短命で終わることとなる。

胡亥自身も、趙高の影響下に置かれ、わずか24歳で自害に追い込まれたのだ。

胡亥がこの若さで、自身の兄弟姉妹に対してここまで残酷な行動を取った背景には、周囲の宦官や側近たちによる悪影響が大きかったと考えられる。

おわりに

胡亥が自害した後、秦王朝の最後の支配者として子嬰(しえい)が即位した。

子嬰が誰の子なのかは不明で、映画や小説では長男の扶蘇の子として描かれたり、胡亥の兄の誰かの子という説や、胡亥の兄、始皇帝の弟、始皇帝の弟の子、など様々な説がある。
子嬰は「皇帝」ではなく「秦王」として統治し、即位後すぐに趙高を処刑したが、すでに崩壊しつつあった秦王朝を救うことはできなかった。

紀元前207年、子嬰は劉邦に降伏し、ついに秦王朝は滅亡したのである。

始皇帝の死後、彼の子供たちがたどった運命、特に嬴阴嫚の悲劇は、権力闘争の残酷さを如実に示している。

権力の座に就くことが目的化した時に行われる暴力や粛清は、最終的には自身だけではなく国まで滅ぼすことになるのだ。

参考 : 『史記』『嬴阴嫚搜狗百科』
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2024年 11月 17日 1:08am

    氏+名で記すことが一般的です
    よって始皇帝は趙政と書くのが正しい
    他に魏無忌は姫無忌とは普通書きません
    韓信も姫信とは言いません
    趙正書にも趙政と記されてます

    5
    12
  2. アバター
    • 名無しさん暇爺〜
    • 2024年 12月 01日 10:27pm

    日本史にも、残虐な刑罰が有りました。キリスト教禁教です。カソリック司教達を
    深い穴を掘り、脚からぶら下げて、絶命するまで放置しました。数日経過したらしいです。
    ⁉️^ ^^^⁉️

    3
    8
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