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平安時代

平将門の乱について調べてみた【幻となった東の朝廷】

日本三大怨霊と呼ばれる三人が、「菅原道真」「崇徳天皇」「平将門」である。

なかでも、平将門(たいらのまさかど)は、現代においてもなお、祟りを成す存在として人々から恐れられている。だが、怨霊となってまで晴らしたいほどの無念とは、私的なものではなかった。

京では「逆賊」、関東では「英雄」。

評価を真っ二つにわけた平将門について調べてみた。

出世できないまま相続争いへ

平将門
※東京都千代田区にある築土神社旧蔵の平将門像。後年の作と思われるが制作年代は不明。

出生についての正確な資料はない。

下総国(しもふさのくに)佐倉(現・千葉県佐倉市)を治めていた「平良将(たいらのよしまさ)」の子として生まれるが、これも確証はない。900年前後の生まれとされており、桓武天皇から数えて5世の血筋を持つ。

しかし、後に下総国でも豊田や猿島といった茨城地方を本拠にしたため、そちらが故郷であったとも考えられている。15の頃に平安京に上がった将門は、当時の藤原氏を束ねる藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えることとなった。

桓武天皇の血筋であり、祖父の「平高望(たいらのたかもち)」は、上総国(かずさのくに)を治める役人であり、父も武士の最高職ともいえる「鎮守府将軍」を務めるなど、武家としては地位の高い家柄に生まれた将門であったが、彼自身は京で出世することはなかった。年代は不明だが、低い官位のまま京を後にした将門は、故郷の東国を目指す。

しかし、その途中の上野国花園村(現・群馬県高崎市)付近で、叔父の「平国香(たいらのくにか)」の襲撃を受ける。その危機を救ったのは国香の弟、「平良文(たいら のよしふみ)」であった。

このときから将門は、平氏一族の相続争いに巻き込まれたのである。

平氏の力が高まる

平将門
※茨城県坂東市、総合文化ホール「ベルフォーレ」の屋外に展示されている平将門像。

なぜ将門が相続争いのキーパーソンになったのかは、当時の武士の立場を見ればわかってくる。

朝廷は各地に国司(行政官)を送ってはいたが、国司は朝廷に税を納める以外は監督されることはなかった。つまり、実質的にその国の君主的立場となっていたのだ。言ってみれば好き放題である。国内の税率を変えて残りを自らの懐に入れたり、任期後もその地を離れずに財力を蓄え、武力を整えたりと地方で力を付けていった。

行政がそのような状態だったため、治安は乱れて自ら武士を名乗るものも増える。そうした武士たちをまとめ上げ、朝廷の目の届かぬ地で、勢力を拡大する武士が現れるようになった。

将門の祖父である平高望も、上総国の国司だったが、任期後も当地を離れずに勢力を拡大しており、将門の父・平良将が死去すると、その権力を巡って相続争いが起きたというわけである。

相続争いに勝ち残る

その後、将門を狙ったのは、平国香の妻の父である「源護(みなもとのまもる)」であった。935年、源護は子の「源扶(みなもとのたすく)」らに命じ、常陸国真壁郡(現・茨城県西部)で将門を襲撃させた。しかし、これを返り討ちにした将門は、真壁郡にある護の本拠を焼き払い、叔父の国香を焼死させたのである。

しかし、これで終わったわけではない。

源護に協力する軍勢が次々と将門を襲ってきては、これを退けることが続いた。叔父の「平良兼(たいらのよしかね)」も敵となって将門の前に立ちふさがるが、ことごとくこれらの障害を破り、将門は関東における武士のリーダー的存在にまでなったのである。もっとも、そこに至るまでは、叔父や将門の親戚ばかりとの戦いであり、巻き込まれた形になりながらも将門は相続争いに勝利したのだ。

幻となった「東の朝廷」

939年、現在の霞ヶ浦沿岸を拠点として領地を経営していた「藤原玄明(ふじわら のはるあき)」は、国府へ税を納めないばかりか、横領の罪で逮捕されそうになる。そこで玄明が助けを求めて逃げ込んだのが、将門のもとだった。これに対し、常陸国府は玄明の引渡しを要求するが、将門はそれを拒否。さらには兵を集めると、玄明の逮捕を撤回させるために常陸府中まで軍を進めるが、結果的に戦闘となり、これに勝利してしまう。

国府を制圧するということは朝廷に反旗を翻したも同然の行為である。

将門は、関東の国府をすべて攻撃しては国司を追放して、みずから「新皇」を名乗るようになった。現在の茨城県坂東市を本拠として、関東8国を治める国作りを始めたのだが、朝廷とて黙っているわけがない。征夷大将軍に任ぜられた「藤原忠文(ふじわらのただふみ)」が将門討伐のために派遣されたのだ。

しかし、皮肉にも将門を討ち取ったのは、下総国で警察的立場を担っていた「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」と、将門の従兄弟であり、将門とは対立し続けていた「平貞盛(たいらのさだもり)」だった。討伐軍が到着する前のことであり、将門の首は京に運ばれ、恐らくは日本史上初の晒し首とされたのである。

平将門
※将門討伐の戦功により、朱雀天皇から鎮守府将軍に任ぜられる藤原秀郷(月岡芳年画『大日本名将鑑』より)

平将門 の怨霊

晒し首となった将門の首は怨霊となり、いつまでも朽ちることなく己の肉体を求め続けたという。

最後に東へ向けて飛び去ったとあり、それが各地に残る「首塚」伝説となった。しかし、平安京で怨霊と恐れられたということは、朝廷にも恨まれる心当たりがあったということである。

それが、関東の治安の乱れであり、民衆の苦しみ、役人の腐敗を見過ごしてきたことではないか。苦しむ人々の思いを背負い、最後は東国独立の夢を見ながらも将門は散ったのである。

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コメント

  1. アバター
    • 匿名
    • 2017年 12月 06日

    参謀格が藤原玄明と興世王だったのが全てですね
    もっとちゃんとしたブレーンがいれば歴史が変わったかもしれません

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  2. アバター
    • 匿名
    • 2020年 3月 19日

    変わった世界も見てみたいですね。 西の朝廷に対して東の国を制圧し新しい天皇となる。将門は各地の豪農や有力者たちを従えて京の藤原政権を打ち日本国の新しい支配者(新皇)となった……なんてこともあったかもしれませんよね。反乱は失敗に終わりましたが朝廷に支配される存在ではなく力により朝廷を抑える試みは将門の乱から七百年後の徳川時代に神君家康公として実現しましたね。

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