
画像:底土港と八丈富士(西山) (かめりあ丸船上より) wiki c 名古屋太郎
本州の南約300kmに位置する八丈島は、関ヶ原の戦いで西軍に属した宇喜多秀家が流された地として知られ、江戸時代初期から明治時代まで流刑地として利用されてきた。
太平洋戦争後には観光開発が進み、南国情緒あふれる風景から「日本のハワイ」とも称され、日本の歴史の闇と光を体現してきた島である。
古来より八丈島は、人の立ち入りが容易ではない絶海の孤島であったが、縄文時代にはすでに人間が住んでいた痕跡が確認されており、人の営みにまつわる多くの伝説が残されている。
「七人坊主の祟り」とは、八丈島に伝わる伝説の一つだ。
お盆の時期になると八丈島の中之郷地域に現れる、と伝わる「七人坊主」は、出会った人に災いをもたらす恐るべき亡霊といわれている。
この「七人坊主」の話は、よくある地域伝承の怪談と思いきや、実際に八丈島で起きた怪奇事件と絡めて、まことしやかに語り継がれている。
今回は、八丈島に伝わる「七人坊主の祟り」と、八丈島で起きた【7】という数字にまつわる事故や事件について触れていこう。
八丈島に伝わる七人坊主の祟り

画像:八丈島東山の裏見ヶ滝 写真AC
まず、八丈島に伝わる「七人坊主」の伝説とは以下のような話である。
その昔、七人の僧侶を乗せて上方(大阪)から出航した船が、八丈島にたどり着いた。
この僧侶たちの身分については、八丈島に流刑にされた罪人とする説や、漂流の末にたどり着いた遭難者とする説がある。
船が八丈島についた時点ですでに食料は尽きており、僧侶たちは飢えに苦しみながらも島内をさまよい歩き、やっとのことで中之郷村にたどりついた。
しかし不幸にも、その時期八丈島では大きな飢饉が起きており、中之郷村の村人たちも自分たちが食うや食わずの状態であった。

画像 : 七人坊主イメージ 草の実堂作成(AI)
飢えに苦しむ村人は、助けを請う僧侶たちに食料を分け与えるどころか「よそ者に施しを与える余裕はない。出ていけ!」と、東山(現在の三原山)に追いやってしまった。
これには僧侶たちが天然痘を患っていたため、村人たちが受け入れなかったという説もある。
無念にも村から追い出された僧侶たちは、飢えに苦しみながら次々と山中で力尽き、恨みを残しながら死んでいった。
物語は、ここから気味悪い話となっていく。
僧侶たちが全員息絶えた後、中之郷村では、村民の家々の周りを白衣を着た僧侶たちが歩き回るという、奇怪な現象が起きるようになった。
さらには農作物の不作が続いたり、蚕や家畜が相次いで死んだりなど、数多の不幸が中之郷村を襲った。
村人が拝み屋に頼んで拝んでもらったところ、村を襲う不幸の原因は「七人の僧侶の祟り」だという。
祟りに恐れをなした村人たちは、僧侶たちを追いやった東山に登り、弔いの塚を建てて自分たちの非情な行いを詫びたが、それでも祟りがおさまることはなかった。
以後、東山の山頂付近で7人の僧侶の話をしたり、ましてや悪口など言ったりすれば、必ず災いが起きると言い伝えられるようになったという。
飢餓の島・八丈島の歴史

画像:八丈島の宇喜多秀家の墓(東京都指定文化財) wiki c さかおり
1960年代以降、南国情緒を感じられる旅行先として人気を博した八丈島だが、かつては常に食糧不足の状態にあり、飢餓島とも呼ばれるほどの島だった。
「七人坊主」は村から追い出されたとされるが、史実では八丈島に住む人々は、島に流れ着いた人物がたとえ流刑者であっても邪険にせず、できる限り手厚くもてなしていたとされている。
しかし、そもそも食料が十分にある時期が、江戸期の八丈島にはほとんど無かったのである。
飢饉でなくとも火山性の土壌や潮風、台風などの影響により平常時ですら作物が育ちにくい上に、次々と本土から送られてくる流刑人の食料も、島内の作物で賄わなくてはならなかった。
狭い島内では麻疹や天然痘など、流人により外から持ち込まれた疫病も蔓延しやすく、それがさらに農作を困難にした。
実際、江戸時代の明和年間(1766~1769)には、八丈島で大規模な飢饉が起きている。
当時の村の人口の約3分の2にあたる733名の餓死者が出た中之郷には、餓死者の供養のために建立された「明和飢饉餓死者冥福之碑」が残されている。
八丈島の文化財 『明和飢饉餓死者冥福之碑』
https://www.town.hachijo.tokyo.jp/culture/餓死者冥福の碑%E3%80%80【金石文】/
また、一説には口減らしに使われたと伝わる「人捨て穴」の跡地が島内に今もある。
50歳を過ぎて労働力として力不足になった島民が「人捨て穴」に捨てられるという風習があり、八丈島の土壌に適したサツマイモの栽培法が確立され、食糧難が解消されるようになった1800年代まで続いていたという。
そして飢饉とは別の話になるが、八丈島には「不受不施僧の墓」と呼ばれる墓が残されている。
不受不施僧(ふじゅふせそう)とは、日蓮宗の一派「不受不施派」に属する僧侶のことであり、彼らは「法華経を信仰しない者からは布施を受けず法施もしない」という教義を厳守していた。
豊臣秀吉の時代の始まりに発生した不受不施派は、江戸時代にはキリスト教と並んで厳しく弾圧された過去があり、八丈島にも多くの不受不施派の僧侶が流刑者として送られてきたという。
「七人坊主」はあくまでも怪談に類する民話で、日本各地に伝わる「七人ミサキ伝説」の一種であるとも考えられており、八丈島で実際に起きた出来事かどうかはわからない。
しかし、八丈島に残る史跡や歴史と照らし合わせてみると、頻繁に起きていた飢饉、弾圧され八丈島に流れ着いた僧侶など、「七人坊主」がまったくの作り話とは思えない符合が目に付くのである。
八丈島で起きた【7】にまつわる事故や事件
「七人坊主」との関連性は不明だが、八丈島島内では「七人坊主」の祟りではないかと噂される「7」にまつわる事故や事件が起きている。
そのうちの1つ目が、昭和27年に起きた事故である。
昭和27年11月19日の朝、東山の山林道路の建設工事現場で土砂崩れが起きた。

画像 : 土砂崩れイメージ 草の実堂作成(AI)
当時現場で作業中だった土木作業員8名が生き埋めとなり、1名は助かったものの「7」名が命を落とした。
土砂崩れの原因は台風の影響と考えられているが、7名の作業員たちの死には「七人坊主」の祟りが関連しているのではないかと噂された。
そして2つ目の事件が、平成7年に起きたと伝わる「八丈島火葬場七体人骨事件」だ。
平成7年8月11日、八丈島八丈町の町営火葬場の炉内から、身元不明の大量の人骨が発見された。
火葬場職員が把握していなかったその大量の人骨を警察が鑑定した結果、見つかった骨は子供1名を含む「7」名分の人骨であり、さらには死後10年以上が経過しているものであると判明した。
火葬時以外は厳重に鍵がかけられていたはずの火葬炉に、誰が何の目的で7体分の遺体を押し込め、人目を忍んで焼いたのだろうか。
八丈島には、一度土葬した遺体を掘り起こして荼毘に付す「改葬」の風習があり、何者かが改葬を目的として遺体を焼いたのではと考えられたが、役場に7名分の改葬の届けは出されていなかった。
そこで、無断で掘り起こされた墓がないか調べられたが、そんな墓はなく、7名分の遺体は島外から持ち込まれた可能性が浮上した。
しかし、警察の懸命な捜査もむなしく事件は時効を迎えてしまい、遺体を持ち込んで焼いた犯人の正体は終ぞわからなかったという。
この奇妙な未解決事件もまた、「七人坊主」の祟りではないかと話題になった。

画像:鎗ヶ崎事件の発端となった目黒新富士。歌川広重画。 public domain
ちなみに、八丈島で最後まで流刑人であった人物は、近藤富蔵という男だった。
富蔵は、択捉島の内国化やアイヌ民族の和風化を推進した幕臣・近藤重蔵の長男であったが、大量殺人事件を犯して流罪となり、1827年に八丈島に流された。
この富蔵の罪状は、土地の境界を巡る諍いから町人「7」名を殺害したというものだった。
江戸中を震撼させたこの事件は、原因となった中目黒2丁目あたりの当時の地名に由来して「鎗ヶ崎事件」と呼ばれている。
富蔵は流刑となってから53年後、明治政府により赦免を受けて一度本土に戻ったが、2年後には生涯のほとんどを過ごした八丈島に戻って三根村大悲閣の堂守として暮らし、1887年に83歳でその生涯を終えた。
富蔵が八丈島で著した『八丈実記』は、緑地社から7巻本として刊行されている。
美しい自然と人情、そしてオカルトが共存する離島・八丈島

画像:登龍峠から八丈富士を望む wiki c hirohiro akabane
約70平方kmにも満たない島内に、美しく豊かな自然と流刑地や軍事施設としての歴史、さらには底知れないオカルトが共存している八丈島は、首都圏に住む人々が気軽に非日常を体験するにはうってつけの離島である。
江戸時代前期に八丈島に流罪となった人物には身分の高い人物が多く、島民に敬意を持って受け入れられた流人によって様々な文化や技術が伝えられた結果、八丈島では食文化や言葉が独自の発展を遂げていった。
近藤富蔵も、八丈島では寺子屋の教師として子どもたちに読み書きを教えながら、宇喜多秀家の末裔に連なる島の有力者の娘と結婚して一男二女を成し、赦免された後も八丈島に戻り、終の棲家としたという。
今でこそ八丈島は人気リゾート地としての地位を沖縄やグアムに奪われてしまったが、独自の文化や産業、歴史や「七人坊主の祟り」などの恐ろしい伝説も含めて、得も言われぬ魅力を放つ島だ。
まだ八丈島に行ったことがないという方は、ぜひ一度足を運んで、その奥深さに魅了されてみてはいかがだろうか。
参考 :
浅沼良次 (編集)『[新版]日本の民話40 八丈島の民話』
乾 浩 (著)『海嘯:逸と富蔵の八丈島』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
民俗学系が好きなので、面白く読ませていただきました。
でも、役不足ではなく、力不足なのでは?と思いました。
ご指摘ありがとうございます。
修正させていただきました!