
画像 : カバ pixabay cc0
アフリカ大陸にはライオンやワニ、サソリ、毒蛇といった、人間にとって危険な生物が多数生息している。
中でもカバは、そのユーモラスな外見とは裏腹に凶暴な性質を持ち、現地では最も恐れられる生物の一つである。
実際、年間に数百人がカバに襲われ命を落としており、ときに三千人に達するという推計も存在する。
その巨体と攻撃性から、カバはしばしば自然を超えた存在として扱われ、畏敬の対象となってきた。
今回は、そうしたカバにまつわる神話や伝承を紹介していきたい。
地中海沿岸のカバ伝説
古代エジプト文明においては、害を及ぼす動物を神格化することで、その力を御し、災いを避けようとする信仰が存在した。
害獣を司る神に祈ることで、それらの動物が人間に危害を加えないようにと願ったのである。
カバもまた例外ではなく、猛獣として恐れられる一方で、神聖な存在として崇拝の対象となっていた。
なお、現在ではナイル川に野生のカバは見られないが、古代には同地に生息していたことが記録や動物遺骸から確認されている。
カバを司る神といえば、タウエレト(Taweret)が特に有名である。

画像 : タウエレト CC BY-SA 4.0
その名は「大いなる母」といった意味であり、安産や家内安全などの加護があると信じられ、民間で広く信仰されていた女神の一柱として名高い。
エジプト文明の崩壊と共に、古代の神々への信仰は廃れていったが、タウエレトへの信仰は根強く残り続けた。
1965年頃まで、この女神への信仰の痕跡が残っていたと伝えられる。
ナイル川は、エジプト文明発展の礎となった、アフリカ最大の河川である。
しかし度々氾濫を起こしては人や家屋を洗い流す、恐怖の象徴でもあった。
そこで人々は川が荒れぬように、タウエレトや他の水を司る神々に祈りを捧げ、供物を投げ入れていたとされている。
だがこの伝統は、アスワン・ハイ・ダムの工事が始まると、完全に廃れてしまったという。
※アスワン・ハイ・ダム―ナイル川氾濫を防止するために作られたダム。しかし川の生態系は著しく崩れ、多くの古代遺跡が水没することとなった。

画像 : アスワン・ハイ・ダム wiki c Hajor
カバとそれを司る女神タウエレトにまつわる信仰は、エジプト周辺地域にも影響を与えたと考えられている。
地中海のクレタ島におけるミノア文明の美術作品には、馬ともカエルともつかない奇妙な姿の霊的存在がしばしば描かれており、「ミノアのゲニウス(Minoan Genius)」と呼ばれている。
その原型がタウエレトに由来するのではないか、という説が一部の研究者により提唱されている。
当時のクレタ島の住民は、カバの実物を見たことがなかったため、伝聞や想像に基づいてその姿を描いた結果、このような異形の怪物が生み出されたのではないかと考えられている。
また、古代ギリシャの王アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323年)が、哲学者アリストテレスに宛てて記したとされる書簡『Epistola Alexandri ad Aristotelem』には、恐るべき人食いカバの逸話が記されている。
アレクサンドロス王がインドへと遠征した際、川に浮かぶ島の上に城を見つけ、斥候として兵士を向かわせた。
ところがその川から、突如として巨大なカバが現れ、兵士たちをすべて食い殺してしまったという。
さらに王は、地元の案内人たちを試しに泳がせたが、やはり全員がカバに食べられてしまったとされている。
もっとも、この書簡はかつては本物として広く信じられていたが、現在では中世ヨーロッパの頃に成立した創作とされている。
カバは本来草食性であり、インドに生息していたという記録も存在しない。
この逸話は、アレクサンドロスの遠征を彩る幻想的な挿話のひとつとして受け止めるべきだろう。
西アフリカの未確認カバ

画像 : コビトカバ public domain
アフリカ西部には、体長2メートルにも満たない小型のカバ、いわゆるコビトカバ(Choeropsis liberiensis)が生息している。
その存在は長らく確認されておらず、20世紀初頭までは未確認動物、いわゆるUMAとして扱われていた。
リベリアなどの地域には、「ニベクヴェ(Nigbwe)」と呼ばれる黒い豚のような怪物の伝承が伝えられている。
森に潜み、人間を襲う獰猛な存在として恐れられてきたが、この伝承の正体こそがコビトカバであると考えたのが、ドイツの動物商カール・ハーゲンベック(1844~1913年)である。
彼は1910年から調査を開始し、1912年頃には生きた個体の捕獲に成功したとされている。
なお、伝承とは裏腹に、コビトカバの気性は一般に穏やかであり、通常のカバと比べて人間に対する攻撃性は低いとされている。
ただし、野生個体による襲撃例も報告されており、もし出会ったとしても無闇に近づくべきではない。
マダカスカルの未確認カバ

画像 : マダガスカルのカバ『H. lemerlei』の骨格標本 wiki c Jonathan Chen
アフリカ南東に位置するマダガスカル島は、独自の進化を遂げた多種多様な生物が暮らす、特異な自然環境を持つ島である。
かつてこの地には三種のカバが生息していたが、およそ一千年前には絶滅したと推定されている。
しかし16世紀から19世紀にかけて、ラロメナ(Làlomèna)やキロピロピトソフィ(Kilopilopitsofy)と呼ばれる未知の怪物の目撃談や伝承が相次いで記録された。
その姿は牛に似ており、毛のない灰色の皮膚に、赤い二本の角を備えていたと伝えられている。
「この怪物の正体は、絶滅したはずのカバだったのではないか」と考えた研究者たちは、マダガスカルにおけるカバの近世的残存の可能性を探ってきた。
だが現在に至るまで、その正体は明らかになっていない。
このようにカバという動物は、その現実の姿とともに、神話や伝説、さらには未確認生物としても語られてきた。
水辺に潜む巨体は、古今東西の人々に畏れと想像を抱かせ続けてきたのである。
参考 : 『The Transformation of Egyptian Taweret into the Minoan Genius』『エジプト神話 神々名簿』他
文 / 草の実堂編集部
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