2,700年前の天皇の現御陵は、160年前に造られた

画像:神武天皇と八咫烏の肖像 public domain
日本建国の祖として崇められる初代天皇は、「神日本磐余彦命(かんやまとあたりびこのすめらみこと)」の名を持つ神武天皇である。
その在位期間は、神武天皇元年1月1日から神武天皇76年3月11日とされ『日本書紀』によれば、おおよそ紀元前660年頃のことになる。
歴史区分で言えば、縄文時代後期から弥生時代初頭にあたる。
神武天皇の御陵とされるのが「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」である。
奈良県橿原市大久保町に位置し、鬱蒼とした森に囲まれ、三つの鳥居と拝所を備えた荘厳な佇まいを見せている。

画像:神武天皇陵拝所と鳥居(撮影:高野晃彰)
玉砂利の参道を進み、拝所に立つと、多くの人が日本建国の天皇の奥津城を前にして厳粛な思いに包まれ、その威厳に圧倒されることだろう。
しかし、紀元前660年という遥か昔に在位したとされる天皇の御陵が、実はわずか160年前の1863年(文久3年)に基礎が築かれ、1897年(明治30年)に完成したと知れば、驚きとともに首をかしげる人も少なくないだろう。
では、なぜ神武天皇の現御陵が近代になって築かれたのか考察していこう。
歴史上実在しないと考えられる天皇の御陵が存在

画像:綏靖天皇 public domain
神武(じんむ)・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)‥‥
これは、初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの歴代天皇の名であり、神武天皇を除いた8人は「欠史八代」と呼ばれている。
この「欠史八代」の天皇たちについては、『古事記』や『日本書紀』において系譜上の記述こそあるものの、事績に関する伝承や記録がほとんど見られない。
そのため、これらの天皇は後世に創作された人物であり、実在した可能性は学術的には極めて低いとされている。

画像:神武天皇。第1回国勢調査の表紙 public domain
では、神武天皇はどうかというと、一部の学者・研究者や保守系の政治家、神道系の宗教団体などを除けば、やはりその実在性は低いと見なされている。
つまり、神武天皇をはじめとする初代から第9代までの天皇は、現代の文献史学においては神話上の存在、すなわち「架空の天皇」と見なされており、その実在はほぼ否定されている。
神武天皇と同様に、「欠史八代」とされる天皇たちにも陵墓は存在する。
しかし、それらの多くは古墳とは呼べない自然の丘であったり、たとえ古墳であっても、実際の築造時期とは大きく異なる時代のものが比定されているのである。
欠史八代の天皇陵の多くは、幕末に比定された
なぜ、実在しなかった天皇たちの御陵が存在するのか。
その背景には、幕末の政治情勢が大きく関係している。

画像:1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図。public domain
1853(嘉永6)年、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航した。
江戸幕府はその圧力に耐え切れず、アメリカと日米和親条約、さらには日米修好通商条約を締結するに至った。
これ以降、国内では尊王攘夷運動が高まり、やがて討幕運動へと発展していく。
こうした政治状況の中で、幕府は朝廷との友好関係を強化することで、政権の失地回復しようと試みた。
その一環として、中世以来荒れ果てていた陵墓の修復事業が始められた。
この頃には、天皇陵での祭祀はすでに途絶え、その正確な位置すらも不明となっており、多くの陵墓は山林や畑、田んぼなどに姿を変え、人々の記憶からも失われていた。
こうして、幕末から明治初期にかけて、次々と天皇たちの陵墓地が「比定」され、その修復作業が進められていったのである。
約7カ月の修復作業で基礎が完成した神武天皇陵

画像:孝明天皇宸影(小山正太郎筆。1902年)public domain
ではここからは、神武天皇陵について話をすすめていこう。
1863年(文久3年)、真木和泉・三条実美・久坂玄瑞ら尊王攘夷派によって、孝明天皇の大和行幸が企画された。
これは、攘夷祈願を名目に神武天皇陵への参拝を行うもので、背後には倒幕への布石という政治的意図も含まれていた。
だが、天皇自身はその計画に消極的だったとされる。
一方、計画を知った幕府は対応に追われた。
というのも、参拝先であるはずの神武天皇陵の正確な所在地が長らく不明となっており、急ぎ「神武陵」を治定する必要があったためである。
孝明天皇は攘夷に理解を示しつつも、基本的には親幕府の立場にあった。
幕府にとっても重要な後ろ盾である天皇の行幸が計画されている以上、その目的地となる陵墓が曖昧なままでは済まされない。
そこで幕府は、『日本書紀』の継体天皇紀、天武天皇紀などを参考に、神武陵の候補地を畝傍山周辺の3カ所に絞ったのである。
中でも『日本書紀』天武天皇紀の記述は、重要な手がかりとなった。
そこでは、壬申の乱の際に高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)が神がかりし、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種々の兵器を奉れ」と神託を受けたとされており、少なくとも672年には奈良盆地南部に神武天皇陵が存在していた可能性が示唆された。
こうして候補に挙げられた神武陵の一つ目は、橿原市大久保町の「丸山」であった。
ここは畝傍山の北東の裾に位置し、「御殿山」とも呼ばれる尾根で、『古事記』の記述と一致するうえ、神功皇后を祀った祠も存在していた。

画像:神武田のミサンザイ。(神武綏靖両天皇御陵図)public domain
二つ目は、同じく大久保町にある「ミサンザイ」と呼ばれる場所で、畝傍山の北東約600mに位置する「神武田(じぶた)」と称される水田であった。
そこには古墳の墳丘のような2つの土饅頭が残されており、加えて「ミサンザイ」という地名が、関西地方で「御陵(みささぎ)」を意味する方言であることからも注目された。場所的にも『日本書紀』の記述と一致していた。
三つ目は、橿原市四条町の「塚山」で、「ミサンザイ」から北東に約400mの位置にある、古墳状の高まりが見られる場所であった。
元禄の頃には、ここが神武天皇陵であると考えられていた。
この三カ所をめぐって、役人や国学者のみならず、尊王論者や「山陵家」と呼ばれる専門家たちの間で、活発な議論が繰り広げられた。
最終的には、学者であり山稜奉行相談役でもあった谷盛善臣(たにもりよしおみ)の意見が重視され、神武天皇陵は「ミサンザイ」に決定されたのである。

画像:山稜奉行相談役・谷盛善臣 public domain
こうして「ミサンザイ」は大急ぎで、神武天皇陵として修復作業が進められた。
しかし谷盛が記した『山稜考』によれば、その地は「およそ百年ほど前から荒れ果て、糞田(肥料用の田)となっていた」という。
だが、孝明天皇の大和行幸が1ヵ月後に迫ったという状況では、短期間に整備できるのは「ミサンザイ」以外にはなかったようだ。
その後、幕府にとっては幸いなことに天皇の行幸は中止されたが、「ミサンザイ」は、1863年(文久3年)5月から約7カ月にわたり、神武天皇陵として修復作業が行われた。

画像:神武天皇陵(撮影:高野晃彰)
水田の中に残っていた土壇を基礎として、方形に二重の土手が築かれ、裾は石垣で固められた。
こうして現在の神武陵の原型が形づくられた。
その後も修復は続き、1897年(明治30年)には東西約130メートル、南北約114メートルの広大な方形区画が整備され、その中央に直径約33メートル、高さ約2.3メートルの円墳からなる御陵となったのである。

画像:文久の修築後の神武陵。(神武綏靖両天皇御陵図)public domain
徳川幕府は260年という歴史の終焉に、全力を挙げて建国の祖・神武天皇陵を造り上げた。
神武天皇は実在性の乏しい天皇ではあるが、天皇家の始祖王として古代には確かにその御陵は存在していたのだ。
またの機会に、古代に存在した神武天皇陵の謎について考察したい。
※参考文献
矢澤高太郎著 『天皇陵の謎』文春新書刊
外池昇著 『神武天皇の歴史学』講談社刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
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