恋川春町(演 岡山天音)が遂げた非業の死は、又しても蔦重(演 横浜流星)に大きな影を落とした。
「春町先生が命をかけて守った黄表紙の灯を絶やすまい」と悲壮な決意でお上に抗おうとする蔦重に対し、老中の松平定信(演 井上祐貴)も「自分の改革で奪ってしまった命に報いるため」と強硬路線を突き進んだ。
正反対の二人が春町への思いを抱える蔦重と定信。
それぞれに譲れない信念をもって苦闘するも、彼らが必死になればなるほど、世と噛みあわなくなっていくもどかしさが描かれている。
戯けるために抗うのか、抗うために戯けてみせるのか

画像:山東京伝像 wikic Hannah
お咎めを恐れる武士階級の戯作者たちが次々と筆を折り、地本問屋仲間も「黄表紙はもう潮時だろう」と囁き合う中、蔦重だけは黄表紙の可能性を諦めなかった。
蔦重が恃みにしたのは山東京伝こと北尾政演(演 古川雄大)。
今後黄表紙界の主導権を握っていくことになる町人戯作者の一人だが、お咎めを受けてまで筆をとるのは腰が引けている。
てい(演 橋本愛)は「春町先生は旦那様がたに累が及ばぬよう腹を切られた。だからお咎めを受けてまで定信を諷刺することは春町先生の本意ではないはず」と蔦重を諫めるが、蔦重はどうしても納得できない。
蔦重にとって、今や黄表紙は楽しく戯けるためではなく、政権を批判するための手段となりつつあったからだった。
多くの犠牲に助けられ、生き抜いてきた蔦重の葛藤
これまで「そうきたか!」と膝を打つようなエンタメを思い立ち、世を沸かせてきた蔦重らしからぬ変貌も無理はない。
思い返せば、蔦重の成功は少なからぬ犠牲の上に成り立っていた。
骨身を削って出世の足がかりを作ってくれた瀬川(演 小芝風花)が去り、書肆としての志を示してくれた平賀源内(演 安田顕)は獄中に命を落としている。
打ちこわしの際に身代わりとなって自分を守ってくれた小田新之助(演 井之脇海)、そして自分を大いに引き立ててくれた田沼意次(演 渡辺謙)は失脚、失意の内に世を去った。
そして今回、春町まで……これ以上、誰かに守られ続けているのは忍びない。
そんな積年の悔しさこそ、蔦重を意固地にさせている原動力とすれば、その気持ちも理解できる。
時代に呑み込まれつつあった蔦重

画像:蔦屋重三郎 山東京伝『箱入娘面屋人魚』より public domain
とは言え、そんな蔦重の激重感情を背負わされてしまう京伝としたら、たまったものではなかろう。
喜多川歌麿(演 染谷将太)が「常の蔦重なら~」と言う通り、今の蔦重には遊び心がまるでない。
定信が主導する「寛政の改革」で、世の中に余裕がなくなっている。図らずも蔦重自身が余裕のない世の中に巻き込まれてしまっていることに、何とか気づいてほしいものだ。
笑いを提供しようと躍起になればなるほど、視聴者(または劇中の黄表紙読者)はその意図に心が苦しくなってしまう。
京伝が気乗りしないなら、自分で黄表紙を書くしかないと筆をとった蔦重。
しかし「笑わせなくてはならない」と焦りながら考えた作品が、面白くなるはずもない。
おていさんと繰り広げる夫婦喧嘩の方がよほど面白いくらいだが、今の蔦重はそんな自分を客観視して笑う余裕すらなかった。
京伝の才能に脱帽する蔦重。しかし……
かくして視野狭窄に陥りつつあった蔦重だが、京伝が書いた『傾城買四十八手(けいせいがい しじゅうはって)』には目を輝かせる。
歌麿の「ありのまま」な画風に触発され、遊女と客の軽妙な駆け引きや揺れ動く感情の機微を、えぐ味とユーモアたっぷりに描き上げたものだ。
人間「ありのまま」の自分を受け入れることには抵抗感を禁じえない。特に先行きが見えない時は尚更である。
しかし戯けることが禁じられ、真面目にしか生きられない世の中であっても、面白味は見出せるものだ。
劇中で徳川治貞(演 高橋英樹)が定信に対し、本居宣長の言葉として「すべては天の計らいであり、人間が自分の都合で善悪を決めているだけだ」と言っていた場面が思い出される。
善と悪のぶつかり合いが世界を動かし、時に滑稽さを生み出していると言えよう。
京伝は一個人の中で善と悪の魂が争い、それが葛藤をもたらしていると解釈する『心学早染草』を板元・大和田安兵衛(おおわだ やすべゑ)から出版した。
解説のとおり本作が善玉・悪玉という言葉を生み出し、それが21世紀の令和にまで使われていることを思うと、本作の価値が理解できる。
権力者・定信が「倹約・正直・勤勉」を推し進めるのであれば、それさえもエンタメ化してやろうという京伝の心意気と才能。
先の『傾城買四十八手』に続いて、京伝に脱帽する蔦重だったが、同時に怒りと焦燥感が彼を衝き動かした。
こんなに面白く描いちまったら、みんなふんどし野郎の言うことを聞いて、世の中がますます窮屈になっちまうだろうが!と。
「面白くないものは消えていく」

山東京伝『心学早染草』より、善魂が悪魂によって追い払われ、主人公が道楽にふける場面。
しかし京伝も黙ってはいなかった。「ふんどしを担ぐとか抗うとか以前に、面白いかどうかではないか」。
今の蔦重は、戯ける手段として抗うのではなく、抗うために戯けることに囚われているのではないか。面白くなければ、黄表紙の灯は消えてしまう。それこそ春町の怨霊から「嵐みてぇな屁をひられ」かねない。蔦重の気持ちは解るが、世の中はそんなものを求めてはいないのだ。
憤懣やる方ない蔦重は「べらぼうが!」と黄表紙を投げつけた。その姿は、かつて蔦重が本屋を始める際に激怒した養父の駿河屋市右衛門(演 高橋克実)を彷彿とさせる。
時代の変化により、今までのやり方が通じなくなった現実を受け止め切れない拒否反応だ。
もはや蔦重は、田沼時代の残滓として余生を消耗するしかないのだろうか。
終わりに
これまで蔦重は、出版を通じてみんなが笑える幸せな世の中を目指して来た。その志は今でも変わってはいないだろう。
しかし志を果たす手段は時代の風によって柔軟に変える必要があり、自分の理想を真正面から突きつけるようでは、毛嫌いしている「ふんどし野郎」定信と何が違うと言うのだろうか。
結果を焦ったばかりに少しずつ人が離れていく蔦重と定信の姿に、世の移ろいそして人間の業を痛感せずにはいられない。
彼らが理想と現実の狭間で苦闘を続ける展開は、現代の私たちにも大きな問いを投げかけているのだろうか。
参考 : 山東京伝『心学早染草』『傾城買四十八手』他
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
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