
画像 : 閃光に染まるハディーサの街 public domain
2003年3月、米国を中心とする多国籍軍がイラクへの軍事侵攻を開始した。
この「イラクの自由作戦」は、サダム・フセイン体制の打倒を目的としていたが、その背景には複数の複雑な要因が絡み合っている。
米国が一方的な軍事行動に踏み切った最大の論理的根拠は、イラクが大量破壊兵器(WMD)を保有しているという疑惑であった。
2001年9月11日の同時多発テロ以降、米国政府、特にジョージ・W・ブッシュ大統領の政権内では、テロ組織への警戒感が極度に高まっていた。
イラクは国際テロ組織アルカイダと連携している、あるいはWMDをテロリストに提供する可能性がある、と強く主張された。
このWMDの脅威、特に核兵器や生物・化学兵器が米国とその同盟国にもたらす危険性が、開戦を正当化する最も公的な理由とされたのである。
国際社会の統制への挑戦と米国の外交戦略

画像 : ジョージ・W・ブッシュ Photo by Eric Draper, White House. public domain
米国は開戦にあたり、国連安全保障理事会での承認を得ようとしたが、フランス、ドイツ、ロシアなどの常任理事国がこれに強く反対したため、承認は得られなかった。
にもかかわらず、米国は「有志連合」としてイラクへの侵攻を強行した。
この決断の背後には、国際協調よりも米国の主体的行動を重視する思想、すなわち単独行動主義(ユニラテラリズム)があった。
ブッシュ政権内で強い影響力を持っていたのが、ネオコン(新保守主義)と呼ばれる政策グループである。
彼らは、冷戦終結によって米国が「唯一の超大国」となった今こそ、専制体制を打倒し、民主主義と自由を世界へ拡大するべきだと考えていた。
ネオコンの思想的な基盤には、1990年代末に活動したシンクタンク「新アメリカ世紀プロジェクト(Project for the New American Century, PNAC)」がある。
そこでは、米国が軍事力と道徳的使命感をもって国際秩序を主導すべきだという理念が掲げられていた。
副大統領ディック・チェイニー、国防長官ドナルド・ラムズフェルド、副国防次官ポール・ウルフォウィッツらがその中心人物であり、ブッシュ政権の対外政策に深く関与した。
イラクのフセイン体制は、冷戦後も中東の不安定要因として見られていた。
独裁的な政治体制、化学兵器使用の前歴、クウェート侵攻などの行動は、国際社会の信頼を失わせ、米国にとっても潜在的な脅威と映った。
ネオコンの主張に基づけば、こうした体制を放置することは、テロと大量破壊兵器の時代における新たな危険を生み出すと考えられた。
米国は、フセインを排除することで、中東における民主主義の「飛び石」を築き、石油資源の安定供給を確保し、ひいては中東全体の政治的・経済的な安定化をもたらすという、壮大な地域戦略を描いていたのである。
情報と自由な議論への統制と誤認

画像 : イラク サダムフセイン大統領 public domain
しかし、開戦から時間が経つにつれ、米国が根拠としたWMDの証拠は、結局のところ発見されなかった。
後に明らかになったのは、イラクのWMD開発能力やアルカイダとの連携に関する情報が、不確実なものであったにもかかわらず、意図的に誇張され、あるいは誤って解釈されたという事実である。
開戦前のブッシュ政権の主要メンバーは、フセイン体制打倒という目的を達成するために、情報機関からの報告や国際的な懸念を軽視した。
「自由」や「民主主義の普及」という理想を掲げながらも、実際には誤った情報と強硬な政治的意思決定によって戦争へと突き進んだ。
この情報操作と、国際的な支持を得られなかったという事実は、イラク戦争が国際法上の正当性を欠く「予防戦争」であったという批判を呼ぶこととなった。
結局のところ、米国がイラク戦争に踏み切ったのは、9.11後のテロへの強い恐怖と安全保障への懸念、フセイン政権の打倒による中東の再編という地政学的な野心、そしてWMDという脅威を根拠とした強硬派による政治的推進力が複雑に作用した結果であるといえるだろう。
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部
























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