大河ドラマ『豊臣兄弟!』第2回で描かれた岩倉城攻め。
この戦いは、若き日の織田信長が尾張の主となるための総仕上げであった。
だが、信長は一代で尾張を手に入れたわけではない。その背景には、父・信秀の存在と、複数の家に分かれた織田一族による内紛の歴史があった。
今回は、戦国時代の尾張の歴史と父・信秀の業績、そして「桶狭間の戦い」以前の信長の歩みについて紹介したい。
ふたつの織田家

画像:戦国時代の尾張の支配構造 筆者作成
もともと尾張は、足利一門の名門である斯波(しば)氏が守護を務めていた国であった。
だが、応仁元(1467)年、10年以上にわたって全国的に展開された応仁・文明の乱をきっかけに、斯波氏は家督争いで分裂する。
その争いにともなって、斯波氏に仕える守護代の織田氏もふたつに分裂した。
尾張北部の岩倉城を本拠とし、代々守護代を務めてきた織田伊勢守家と、南部の清須城を本拠とする織田大和守家である。
15世紀後半から16世紀初頭にかけて、このふたつの織田家は尾張を二分する争いを繰り返す。
その結果、織田大和守家は尾張の新たな守護代としての地位を確立するにいたった。
だが、その勢いも長くは続かない。
本来の守護であった斯波氏の衰退とともに、守護代を務めていた両家の権力も次第に衰えていったのである。
織田弾正忠家の登場
守護代である織田大和守家に代わって権力をふるうようになったのは、その家来である三奉行のうちのひとつ、織田弾正忠家であった。
この弾正忠家が信長の血筋にあたる。

画像 : 織田弾正忠平朝臣信定古城蹟(勝幡城跡、愛知県愛西市) 立花左近 CC BY-SA 3.0
信長の祖父にあたる信貞(信定)の代に、弾正忠家は尾張西部の港町であった津島を支配する。
当時の津島は、伊勢湾からの貿易や水運によって潤う都市であり、全国的に信仰されていた牛頭天王社の門前町でもあった。
津島の北東にある勝幡城(しょばたじょう)を本拠に定めた信貞は、武力を背景としつつ「津島衆」と呼ばれる商人たちを統制し、津島を支配下に置いた。
こうして津島の莫大な経済力を手に入れた織田弾正忠家はいっそう勢力を増し、尾張の実質的支配者としての地位を確立する。
台頭する織田信秀

画像:萬松寺所蔵の織田信秀像 public domain
そして、織田弾正忠家は信貞から信秀と代替わりした。この信秀が信長の父である。
信秀の代になると、織田弾正忠家の勢力は目を見張るものになっていた。
天文2(1533)年、信秀は京から公家である飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)を蹴鞠の師匠として尾張に招いている。
その飛鳥井雅綱に同行した貴族・山科言継(やましな ときつぐ)の日記によれば「信秀に案内された勝幡城内の客殿は目を見張るほど立派であり、家臣の平手政秀から進呈された太刀の造作は素晴らしいものであった」という。
そもそも地方の守護代の家来が、京から公家を自分の城に招くということ自体、それ相応の権力や財力がなければ不可能である。
主君であるはずの守護代・織田達勝が勝幡城まで出向いて雅綱と言継と面会し、尾張の武士や国人たちも大勢集まったというから、信秀の勢力は群を抜いていたのだろう。
そして天文7(1538)年頃、信秀は那古野を支配してきた今川氏豊を追い、那古野を手中に収めた。
東尾張の制圧を進める信秀は、三河や美濃といった隣国にまで出兵する大勢力へと成長していったのである。
信長の継承

画像 : 織田信長 public domain
一時は三河西部の安祥城、美濃南西部の大垣城を手に入れた信秀であったが、その勢いには次第に陰りが見えていた。
美濃の斎藤道三と駿河の今川義元に加え、主君である織田大和守家、一族である織田弾正忠家まで敵に回した信秀は一時、四面楚歌の状態となる。
天文17(1548)年、信秀は道三と和睦し、翌年に大垣城を返還。そして今川との戦に敗れたことで安祥城も奪われ、織田家は三河と美濃における権益を失うこととなった。
今川との和睦交渉を進めるなか、いつしか信秀は病に伏せるようになる。そして天文21(1552)年3月、信秀が没し、信長が織田家を継承した。
織田家の当主となった信長であったが、尾張一国を手に入れるまで前途は多難であった。
家中では同母弟・信勝(信行)が信長に敵対しており、衰えたとはいえ織田大和守家と織田伊勢守家も健在であった。そして駿河の今川義元は虎視眈々と西進の機会をうかがっている。
舅の斎藤道三や叔父の信光を頼りに、信長は内外に敵だらけの状況下を耐え忍ぶしかなかった。
尾張統一戦争

画像 : 清洲城天守(清洲城公園側からの眺め) YTARMR CC0
信長が家督を継承してから2年後の天文23(1554)年、清須城内で一大事件が起きる。
織田大和守の当主・織田信友のもと、大和守方が守護である斯波義統(しば よしむね)を急襲し、これを討ち取ったのである。
義統の子である岩龍丸(のちの斯波義銀)を保護した信長は、すぐさま清須に出兵。
さんざんに打ち破られた信友は、弾正忠家の信長の叔父・信光を抱き込もうとするが、信光はこれに応じず、隙をついて清須城を占拠したため、信友は清須を追われた。
翌天文24(1555)年4月、信長は斯波義統弑逆の罪を掲げ、謀反人として「安食の戦い」で信友を討った。
ここに織田大和守家は滅亡した。

画像 : 天文21年(1552)頃の尾張の勢力図 伊佐坂安物 CC BY 3.0
名目上の主君であった守護家が消滅したことで、信長は尾張における行動の制約から解き放たれた。
しかし天文23(1554)年から翌年にかけて、叔父の信光と、義父の斎藤道三が相次いで死去する不運に見舞われる。
道三を討ち取った斎藤義龍は明確な敵対の姿勢を見せ、美濃は再び信長の敵対国となってしまった。
そして弘治2(1556)年8月、対立姿勢を続けていた弟の信勝が挙兵する。
それに対して信長は700の兵を率いて清須城を出撃し、尾張国稲生(いのう)において信勝方の1700の兵を撃破。信勝は信長に降伏する。
残る信長の敵は、織田伊勢守家であった。
永禄元(1558)年、尾張国浮野(うきの)の戦いで織田伊勢守家を打ち破った信長は、翌年の春に岩倉城を包囲。
当主の織田信賢は信長に降伏し、ここに尾張の両守護代家は滅亡した。
尾張国内の敵対勢力をあらかた滅ぼした信長であったが、討たなければならない相手はまだ残っていた。
信長に降伏したはずの弟・信勝である。
母の土田御前のとりなしによって赦免されたはずの信勝であったが、その後も信長に対する敵意は健在であった。
信勝は美濃の斎藤義龍と連絡を取り合うなどして反抗的な行動を続けたが、永禄元(1558)年11月に信長に殺害された。
こうして信長は尾張の主としての地位を確立する。
だが、尾張の内部には今川方についている城もいまだ多くあった。信長が完全に尾張を統一するのは、桶狭間の戦いに勝利した5年後の永禄8(1565)年のことであった。
参考文献 :
『信長公記』太田牛一著
『天下人の父・織田信秀』谷口克広著 祥伝社新書
『尾張・織田一族』谷口克広著 新人物往来社
『人物叢書 織田信長』池上裕子著 吉川弘文館
文 / 日高陸(ひだか・りく)校正 / 草の実堂編集部























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