
画像:少女たちはどのように遊女になっていったのか? ※イメージ
江戸時代の遊郭は華やかな色街として語られることが少なくありません。
ですがその実態は少女を仕入れ、育て、売り物にする、きわめてシビアな仕組みの上に成り立っていました。
その「原石」となる少女たちは、どのようにして集められていたのでしょうか。
巧みなスカウト術と「原石」の調達
少女たちを遊郭へ送り込んでいたのが「女衒(ぜげん)」と呼ばれる仲介業者です。
女衒には、娘の身内から依頼を受けて遊女屋へ斡旋する「町女衒」と、越後や出羽など諸国の農村を回って幼い娘を買い集める「山女衒」の二種類がいました。

画像 : オランダ軍医のヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト public domain
幕末に来日したオランダ人医師ポンペは、「貧しい親たちは自分の若い娘を、幼い年端もゆかぬ時期に公認の遊女屋に売るのである。ときには5〜6歳ぐらいの事もある」と記録しています。
実態として多く見られたのは、暮らしに行き詰まった親が娘に事情を言い聞かせ、自ら遊女屋に連れてくるケースでした。飢饉や災害で困窮した農村では口減らしを兼ねて、親のほうから身売りの話を持ちかけることが多かったようです。
対価は安い場合で3両から5両ほど、容姿や年齢によっては数十両に達することもありました。
現代価格の換算は難しいものの、3両から5両はおおむね数十万円程度とみられ、娘の一生を差し出す代価としては、あまりに安い金額でした。
しかもその金は娘にとっては前借金となり、養育費や衣装代とともに負債として積み上がっていったのです。
家族のための「孝行」という論理
現代の感覚に照らし合わせれば、自分の娘を売るという行為は到底受け入れがたいことですが、当時の社会では事情が違いました。
家計が立ち行かないとき、娘が身を売って家族を救うことは「孝行」とみなされ、奉公を終えて戻った女性が社会から蔑まれることはなかったといいます。

画像 : 年季奉公人請状(年季食売下女奉公人請状之事) 東京都立中央図書館 PDM
だからといって身売りが軽い出来事だったわけではなく、遊女屋に入る際には「年季奉公人請状」と「不通縁切証文」が交わされました。
請状には、病死・頓死しても親は抗議しないことや、逃亡した場合の費用を親が負担することなどが細かく定められ、不通縁切証文によって娘は親元の人別帳から外され、楼主の養子として縁組されます。
病気の治療費すら娘本人の借金に加算されました。
身体だけでなく命まで差し出すに等しい契約を、親も承知した上で結んでいます。
それでも周囲は娘を売った親を責めるより、家族を救うための孝行として受け止めることが多かったのです。
禿(かむろ)〜付加価値を高める先行投資

画像:禿を従える花魁(中央)public domain
遊郭に入った少女たちは、まず「禿(かむろ)」と呼ばれる見習い期間を過ごしました。
新しい名前を与えられ、高位の花魁を姉分として、その身の回りに仕えることになります。
禿自身は客を取らず、姉分の身の回りの世話や花魁道中への付き添い、宴席での酌といった役目をこなしながら、読み書き、和歌、廓言葉といった教養を叩き込まれていきます。
この期間は年季(借金を返すための奉公期間)にはカウントされない「ただ養い」であり、遊女屋にとっては将来の稼ぎ手になる遊女を一から仕込むための準備期間でした。
禿の衣装代や、のちの新造出し(お披露目)にかかる費用は姉分の花魁が負担しました。花魁にとっては名誉なことですが、その分だけ自身の借金も確実に膨らんでいきます。
それでも花魁は禿を着飾らせ、仲之町を練り歩くときには必ず従えました。禿を連れていること自体が花魁の格を示す演出であり、いわば禿は「花魁の格を見せる飾り」だったからです。
宴席では客のそばに侍って酌をし、幼い愛嬌で場を和ませながら、姉分の花魁が間夫(まぶ=恋人)と密会していないかを見世の者に報告する。そうした監視役も禿の仕事でした。
客あしらいから廓の人間関係、裏社会のルールまで、禿は現場で身に付けていったのです。
新造出し〜13歳で迎える最初の分岐点

画像:正月飾りの準備をする新造と禿(勝川春亭画)public domain
禿が13歳から14歳になると、「新造出し」と呼ばれるお披露目を経て「新造」へと昇格します。
新造出しの準備は約10日前から始まり、お歯黒のつけ初めを皮切りに、世話になっている茶屋や船宿へ祝いの品が配られていきます。
将来を嘱望された少女は「振袖新造(ふりしん)」となり、引き続き客は取らず、姉分の花魁のそばで接客の作法を学びました。容姿や素質がとくに際立つ者は楼主が手元に引き取り、「引込新造」として三味線や茶道など芸事の特訓を受けます。
花魁候補として大切に育てられるかどうかは、この段階で大きく分かれていました。
一方、禿を経験していない年長の少女や、楼主に見込まれなかった者は「留袖新造(とめしん)」として、より早い段階で客を取ることになりました。
水揚げ〜遊女になるの通過儀礼
振袖新造が16歳から18歳になると、正式に客を取る前にもうひとつの通過儀礼が待っていました。
「水揚げ」と呼ばれる、初めて男性客と床をともにする儀式です。
その相手には女性の扱いに慣れた初老の馴染み客が選ばれたり、妓楼によっては専属の水揚げ役がいたとも。
商品である遊女の身体を傷つけるわけにはいかないため、水揚げの相手選びにも遊女屋の慎重さがうかがえます。
突き出し〜遊女デビューの明暗
水揚げを終えた新造が、正式に客を取り始めることを「突き出し」といいます。
とりわけ「呼び出し」や「昼三」といった最上位の花魁になる新造には、7日間にわたって異なる衣装で仲之町を練り歩く「道中突き出し」が行われました。莫大な費用は姉分の花魁が工面しなければなりません。
ただし、こうした華やかな披露目を許されるのは一握りの上位新造だけです。それ以外は「見世張突き出し」として、妓楼の格子の内側で静かに遊女デビューを迎えることになります。
一部のエリートは最高位の花魁への階段を上り始め、そうでない多くの者は格下の遊女として客を取り続けました。
どの道に進んだとしても、借金を返済して自由の身になれる「年季明け」は、おおむね26歳から27歳頃とされました。
しかし寺に残る過去帳をもとにした推計では、吉原で亡くなった人々の平均死亡年齢は22歳余りともされており、年季明けの日を迎えられなかった女性も少なくなかったと考えられています。
このように華やかな花魁の世界は、選び抜かれた一握りの者を華やかな頂に押し上げる一方で、多くの少女たちは年季明けすら迎えられないまま使い潰されていく場所でもあったのです。
参考文献
髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』新潮新書、2024年。
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

























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