ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の心の中には、生涯にわたって一人の女性が棲み続けていました。
彼女の名は、エリザベス・ビスランド・ウェットモア。朝ドラ「ばけばけ」に登場するイライザのモデルとなった人物です。
二人は出会ってからハーンが亡くなるまで不変の友情を貫きました。
日本に来てから、ハーンはエリザベスに二度と会うことはありませんでしたが、手紙でのやり取りを続け、彼女に宛てた手紙の中で時に愛の告白ともとれる熱い言葉を綴っています。
そんな二人の関係を、長男・一雄は「肉体を離れた精神的な恋」と表現しました。
ハーンにとって、エリザベスとはどのような存在だったのでしょう。
二人の出会い 〜心をわしづかみにされたハーン

画像 : エリザベス・ビスランド(1891年)public domain
エリザベス・ビスランドは、1862年2月11日、アメリカのルイジアナ州で生まれました。
ビスランド家は、プランテーションを営む大地主でしたが、南北戦争で破産し没落。
食べるものにも困るような貧しい生活のなか、エリザベスは16歳の頃から家計を助けるために、新聞に詩を投稿していました。
彼女の書いた数々の詩は新聞社の目に留まり、エリザベスはニューオーリンズの『タイムズ・デモクラット』社の記者となります。
1882年、同紙の文芸部長を務めていた32歳のハーンは、入社したばかりのエリザベスと出会いました。
当時、エリザベスは21歳。ハーンの書いた「死者の愛」に感銘を受けた彼女は、自らハーンに会いに来たのです。
背が高く色白で、たっぷりとした黒髪に黒い大きな瞳。自信にあふれたまばゆいばかりの若く美しい女性に、ハーンは一瞬で心を奪われてしまいます。
それまで、ハーンは自身の容貌へのコンプレックスから、女性との交際に深入りしないようにしていました。
特に自分と対等と思える女性への恋情は、相手を姉や妹と考えることで、打ち消すようにしてきたのです。
しかし、エリザベスにその手は通用しませんでした。振り払おうとすればするほど、頭の中は彼女のことでいっぱいになってしまうのです。
自分を師と仰ぎ、敬意をもって接してくれるかわいいエリザベス。ハーンは自分の感情を押し殺し、わざとそっけない態度を取っていましたが、彼女への思いを消し去ることはできませんでした。
当時、知人に宛てた手紙のなかで、ハーンはエリザベスについて「肉体的にも知的にも、非常に魅力的」だが「小悪魔的で結婚生活を地獄にしてしまう型の女性」 (ティンカー『ラフカディオ·ハーンのアメリカ時代』より)と評しています。
「愛していると言ってもいい」真夜中に書いたラブレター

画像 : 世界一周競争中、客船の甲板上でのエリザベス・ビスランド public domain
ニューヨークに移ってからも二人の交際は続きます。
ハーンはエリザベスの自宅を足しげく訪れ、妹や弟と面会し、彼女の友人たちと交際しました。
1889年11月、エリザベスは、雑誌『コスモポリタン』の企画で世界一周競争に挑みます。
一方、ハーンは翌年の3月、日本を目指しアメリカを後にすることになりました。
日本行きの準備を進めていた3月7日の深夜、荷造りを終えたハーンは筆をとり、エリザベスへの手紙をしたためます。
そこには、エリザベスを亡き人としてあきらめ、彼女への思いを胸の奥底にしまいこもうとするハーンの切ない愛の告白がつづられていました。
「 …… あなたはなんと優しく、このうえなく素晴らしい人でいらっしゃるのか、どれほどあなたを好いているか、(中略)あなたを愛していると言ってもいい––ちょうど、私たちが死んだ者たち(生者を今なお形造っている死者たち)を愛するように …… 」
E.スティーヴンスン『評伝ラフカディオ・ハーン』より
エリザベスの結婚をグチるハーン

画像 : ハーンとセツ public domain
来日後、セツと事実上の夫婦となったハーンは、エリザベスへ手紙で結婚を報告します。
その1年後の1891年10月、今度はエリザベスが裕福な法律家のチャールズ・ウェットモアと結婚。
熊本で彼女の結婚を知ったハーンは心中穏やかでいられず、親友エルウッド・ヘンドリックに愚痴めいた手紙を送っています。
「……ニューヨークでは、とても優しくしてくれて、私をある意味で虜にしてしまいました。––彼女がもつ無数の面から、魅力的な一つの面だけを私に見せたのです。(中略)私が彼女の将棋の一枚の「歩」にすぎないのなら、彼女のお情けを頂戴するのはご免です。……」
E.スティーヴンスン『評伝ラフカディオ・ハーン』より
世界の違う、手の届かない人になってしまった寂しさと妻帯してなお、ふつふつと湧き上がる嫉妬。夫を持つ身となった女性への気遣いもあったのでしょう。その後、ハーンは沈黙し、エリザベスへ手紙を送ることはありませんでした。
だからといって完全に吹っ切れたわけではないようで、自宅ではエリザベスの写真を書斎に飾り、教室では彼女の名前を英語の典型的な女性名として、呪文のように繰り返し生徒に復唱させています。
しかし1900年1月、ハーンの沈黙を破る一通の手紙が届きます。封筒の筆跡を一目見て、ハーンはすぐにエリザベスからのものだと分かりました。
二人の文通は復活し、特に晩年の3年間、彼はエリザベスへ頻繁に手紙を送るようになりました。
「あなたを喜ばせたかった」ハーンにとって創作の根源だったエリザベス

画像 : ラフカディオ・ハーン public domain
「あなたに日本へ行ってほしい。あなたがその国についてお書きになった書物が読みたいから。」
ハーンが日本行きを決めた理由の一つは、エリザベスのこの一言でした。
世界一周の競争をした際、横浜へ滞在した彼女は日本びいきとなり、ハーンへ来日を勧めたのです。
彼はエリザベスの言葉を「崇敬する女王の仰せ」として受け取り、日本へやって来たのでした。
ハーンは日本で仕事と家庭を得て14年間を過ごし、一生を終えました。
その間、彼が上梓した著作は11冊。年に約1冊というハイペースで執筆を続けました。
ハーンがエリザベス宛の手紙に、「……出版物でお便りいたします。それなら、あなたを喜ばせられるかもしれない……」と記したのは、「あなたが書いた本を読みたい」と言ったエリザベスへの返答のようにも思われます。
エリザベスに魅了されながらも指一本触れることもなく、ただ畏敬の念を手紙にとどめたハーン。
ハーンにとってエリザベスは、生涯の友であり、最大の理解者でした。そして、文学者ハーンのほかならぬ創作の源泉であり、原動力だったのかもしれません。
参考文献 :
E.スティーヴンスン『評伝ラフカディオ・ハーン』,恒文社,1984.8
『ラフカディオ・ハーン著作集』第15巻.〔本編〕,恒文社,1988.9
田部隆次『小泉八雲』,中央公論新社,2025
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部

























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