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「田畑政治ゆかりの地」案内板設置全11ヶ所へ行ってみた

田畑政治ゆかりの地(浜松市内11ヶ所)巡りの旅

古橋廣之進記念浜松市総合水泳場ToBiOにてフリーペーパー『HAMA流』第29号 ※写真は全て本人撮影

──浜松城(静岡県浜松市)、引馬城(静岡県浜松市)と続いて、次はどこのお城?

いえいえ、まだ浜松市にいます (*∩v∩*)

これから、2019年NHK大河ドラマ『いだてん』の後半の主人公である田畑政治(静岡県浜松市出身)の「田畑政治ゆかりの地」案内板設置場所(全11ヶ所)巡りに行きまーす -=≡ヘ(*・ω・)ノ

田畑政治ゆかりの地」案内板設置場所は、

案内板①田畑政治の生家跡
案内板②浜松南尋常小学校
案内板③浜松中学校
案内板④浜松市営元城プール跡
案内板⑤田畑家の弁天島別荘跡
案内板⑥浜名湖弁天島茗荷屋旅館跡
案内板⑦浜名湖弁天島100mプール跡
案内板⑧古橋廣之進生家跡
案内板⑨雄踏尋常高等小学校
案内板⑩山崎プール跡・古橋廣之進顕彰碑
案内板⑪浜名湖大遠泳

の11ヶ所になります。詳しくは、浜松市PRブック『HAMA流(はまる)』第29号「水泳ニッポンの父 田畑政治ヒストリー」p.12-13に掲載されています。

http://www.we-la.com/ebook/201812/html5.html#page=13

田畑政治と金栗四三(ToBiO)

まずは、古橋廣之進記念浜松市総合水泳場ToBiO(静岡県浜松市西区篠原町)の「日本水泳の歴史資料室」で2019年12月29日まで開かれている「田畑政治展」へ行ってお勉強 .φ(◎◎ヘ)

金栗四三氏(『いだてん』前半の主人公)と田畑政治氏(『いだてん』後半の主人公)が並んで撮られた写真が展示されていました (ノ゚ω゚)ノ*.オオォォォォォォォー

※ToBiOは、館内撮影禁止ですが、「日本水泳の歴史資料室」は撮影可能です。
※ToBiO公式サイト https://www.hgw.co.jp/tobio/
※目次は話の都合上、次の順で紹介します。

《田畑政治&オリンピック(競泳メダル数)略年表》

明治31年(1898年) 12月1日 浜松市に生まれる。(案内板①)
・浜松南尋常小学校(案内板②)、浜松中学校(案内板③、案内板⑪)、東京帝国大学に進学する。
大正5年(1916年) 宮崎康二、生まれる。
大正9年(1920年) 第7回アントワープオリンピックで内田正練(浜松市)予選落ち(メダル0)。
大正10年(1921年) 6月4日、長谷川鐵雄の楽園プールが完成する。(案内板⑦)
大正13年(1924年) 大学を卒業し、朝日新聞社に入社する。第8回パリオリンピック(メダル0)。
昭和3年(1928年) 第9回アムステルダムオリンピック(金1・銀1・銅1)。古橋廣之進、生まれる。(案内板⑧)
昭和4年(1929年) 日本水上競技連盟名誉主事、大日本体育協会理事に就任する。
昭和7年(1932年) 第10回ロサンゼルスオリンピック水泳総監督(金5・銀5・銅2)
昭和11年(1936年) 第11回ベルリンオリンピック本部役員(金4・銀2・銅5)
昭和12年(1937年) 浜松一中50mプール竣工記念に日米水上競技大会を開催する。(案内板③)
昭和13年(1938年) 東京オリンピック中止決定
昭和15年(1940年) 第12回ヘルシンキオリンピック中止
昭和19年(1944年) 第13回ロンドンオリンピック中止
昭和20年(1945年) 日本水泳連盟理事長に就任する。
昭和23年(1948年) 第14回ロンドンオリンピック不参加。神宮プールで水泳協議会を実施する。
昭和24年(1949年) 朝日新聞社常務取締役に就任する。
昭和25年(1950年) 浜松市営元城プール竣工記念に日米交歓水上大会を開催する。(案内板④)
昭和27年(1952年) 第15回ヘルシンキオリンピック日本選手団団長(金0・銀3・銅0)
昭和31年(1956年) 第16回メルボルンオリンピック日本選手団団長(金1・銀4・銅0)
昭和34年(1959年) 1964年の東京オリンピック開催決定
昭和35年(1960年) 第17回ローマオリンピック(金0・銀3・銅2)
昭和36年(1961年) 日本水泳連盟名誉会長に就任する。
昭和39年(1964年) 第18回東京オリンピック(金0・銀0・銅1)
昭和43年(1968年) 第19回メキシコオリンピック(メダル0)
昭和44年(1969年) 日本オリンピック委員会常任委員に就任する。
昭和46年(1971年) 日本体育協会副会長に就任する。
昭和47年(1972年) 第20回ミュンヘンオリンピック(金2・銀0・銅1)
昭和48年(1973年) 日本オリンピック委員会委員長に就任する。
昭和51年(1976年) 第21回モントリオールオリンピック(メダル0)
昭和55年(1980年) 第22回モスクワオリンピック不参加
昭和59年(1984年) 第23回ロサンゼルスオリンピック(金2・銀0・銅1)。8月25日逝去。

案内板①田畑政治の生家跡

案内板①田畑政治の生家跡

「田畑家は造り酒屋を営む浜松有数の資産家であった。八百庄という屋号で清酒・味醂・白酒・焼酎を醸造・販売。この地は、三方原台地の南端に位置し、豊富な湧き水や井戸もあったために酒造りに適しており、東海道に面していたため人通りも多かった。田畑家の当主は浜松商業会議所の設立のほか銀行や堀留運河等の事業にも関わっていた。政治は、明治31年 (1898) 12月1日に田畑家の二男として生まれた。その後、浜松で初の本格的なフランス料理レストラン「オーク」へと業態を転換し、おもてなしの拠点としてたいそうな賑わいを見せた。」(案内文)

「敷知郡浜松町成子 田畑庄吉  八百庄という屋号で清酒・味醂・白酒・焼酎の醸造と販売を、また、灘の銘酒・西洋の酒類も取り扱っていた。成子は稲葉山など三方原台地の末端に位置し、豊富な湧水に恵まれており、昔から忍冬酒や浜納豆などが製造されていた。構内には福禄井と呼ばれた井戸がある。店は東海道に面していて、人通りが多かった。」(『浜松市史』)

田畑政治の生家は造り酒屋「八百庄酒店」で、清酒「東天」やサイダーの製造・販売を行っていました。「忍冬酒」は徳川家康が愛飲したスイカズラ酒で、「浜納豆」は糸を引かない納豆です。

大変裕福で、堀留運河や遠江貯蓄銀行への出資や、浜松商業会議所(現在の浜松商工会議所)の設立にも加わっています。

田畑政治(次男)の兄・五六の子・田畑皓志は酒屋をやめ、フランス料理レストラン「浜松会館オーク」を建てましたが、現在はコンビニになっていて、駐車場の隅に案内板①がたっています。

案内板⑤田畑家の弁天島別荘跡

案内板⑤田畑家の弁天島別荘跡

「明治の中頃になると、海水浴が病気の治療に効果があるとされ注目を集めた。明治22年(1889)東海道鉄道が全通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造った。政治は小学校へ行く前から、この別荘で夏と冬の休みを過ごしていたため、目の前の浜名湖で小さい時から自然に泳ぎを覚え、水泳に高い関心を持つようになった。政治の水泳の原点は、当時、水泳訓練が非常に盛んであった浜名湖の弁天島に所在した別荘にあったといっても過言ではない。」(案内文)

明治20年(1887年)頃、那須田又七の知人が舞阪の那須田家の別荘を借りて療養すると、健康を回復しました。驚いた那須田又七が、多くの医師を招いて浜名湖を調査させると、弁天島周辺が療養地として最適であると分かり、明治22年(1889年)に旅館「一碧楼」を建て、弁天島海水浴場を開きました。つまり、当時の「海水浴」は、「病気治療」(転地療養)のためのものだったのです。田畑政治の祖父も父も34歳という若さで肺結核で亡くなっています。その結核には海辺で発生するオゾンが有効だと信じられていました。

弁天橋と今切

「私は小学校へ行く前から、浜名湾の弁天島にある別荘で、夏と冬との休みを過すのを常としていた。私の祖父と父は、ともに肺結核で早死していたから、心配した母親が「息子を丈夫に育てたい」と考えたのだろうか。周りが海なので、付近の子どもたちは小学校に入る前から一日中泳いでいるような環境であった。私も早くから自然に泳ぎを覚えた。明治35、6年ごろ、弁天島の南側の海を利用して、遠州学友会水泳部などが盛んに泳いでいた。互いに脚立を並べて練習に励んだので、部員の競争心は随分旺盛であった。私は浜松中学の水泳部に入るまで、ずっとこの水泳部に入れてもらっていた。この頃はクロールなどというものはなかった。浜松中学や浜松商業、掛川中学の水泳部は神伝流をやり、遠州学友会は、水府流をやっていた。後、この4つの水泳部で浜名游泳協会をつくり泳法も浜名湾流に統一したが当時は学校名より流派を重んずる傾向があった。初期の頃は、専ら遠泳が多かった。弁天島の前の流れのはげしさは全国的に定評があった。特に引汐の時はうなりをたててのすごい勢いであった。「浜名湾の連中は、めっぽう足が強い」というのがこれまた全国的な定評であったが、このような急流の折りをみはからって、もりもり泳がされるのだから、いやでも鍛えられて強くなるはずである。中学に入ったら1、2年生で医師に健康に異常ないと認められた者は全員弁天島の小学校に合宿して午前午後2時間ずつ泳がされたから、当時わが中学に泳げない者はひとりもいなかった。」(田畑政治『スポーツとともに半世紀』(静岡県体育協会))

案内板②浜松南尋常小学校

案内板②浜松南尋常小学校

「浜松の発展に伴い学童数が多くなったため、明治42年(1909) 4月に浜松南尋常小学校が新設された。田畑家のある成子は南尋常小学校の通学区域となったために転校することになるのだが、校舎が未完成のため、これまでの浜松尋常高等小学校内にできた浜松南尋常小学校で学ぶことになった。政治は6年生の同43年7月に浜松駅南側にできた浜松南尋常小学校新校舎へ通うことになったが、 成績が抜群で実家は造り酒屋を営む資産家であったため、浜松中学校(現在の浜松北高等学校)への進学を希望するようになった。」(案内文)

※「浜松市立双葉小学校」公式サイト http://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/futaba-e/index.html

案内板③浜松中学校

案内板③浜松中学校

「浜松中学校は明治27年(1894)に静岡県尋常中学校浜松分校として開校。7年後に静岡県立浜松中学校となった。田畑政治の成績は常にトップクラスで、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学した。政治は母校の水泳を日本一にしようと活動し、大正12年(1923)に25mプールが完成。浜松一中水泳部(大正13年から浜松第一中学校となる)は昭和3年(1928)から全国大会3連覇を達成し、昭和7年(1932)には在学中の宮崎康二がロサンゼルス五輪100m自由形と800mリレーで金メダルに輝いた。その後、 昭和12年(1937)に50mプールが完成、政治はプール竣工記念に日米水上競技大会を開催した。」(案内文)

※「静岡県立浜松北高等学校」公式サイト http://www.edu.pref.shizuoka.jp/hamamatsukita-h1/home.nsf/IndexFormView?OpenView

案内板⑪浜名湖大遠泳

案内板⑪浜名湖大遠泳

「文武両道の浜松中学校(現在の浜松北高等学校)では、8月に弁天島で厳しい水泳訓練を行うのが慣例となっており、訓練のクライマックスは荘内半島の村櫛から都田川河口の気賀までを泳ぐ大遠泳。水泳時間は6時間を超え、完泳率は4割以下という中、田畑は1年生の時から見事に完泳。5年生の時まで毎年完泳を続けた。ここ舘山寺では大遠泳を行う浜松中学校の生徒の様子が見られた。大草山の頂上からは大遠泳のスタート(村櫛)からゴール地点(気賀)まで、全コースが俯瞰できる。」(案内文)

案内板⑪をたてるとしたら、スタート地点(村櫛)か、ゴール地点(気賀)か、全コースが俯瞰できる大草山でしょうけど、案内板⑪は、なぜか舘山寺温泉郷の「志ぶき橋」のたもとにあります。

案内板⑥浜名湖弁天島茗荷屋旅館跡

案内板⑥浜名湖弁天島茗荷屋旅館跡

「浜松中学校の水泳部の活動が始まったのは明治35年(1902)。舞阪町の宝珠院に本部を置き、弁天島の老舗旅館である茗荷屋旅館を借りて古式泳法・遠泳・飛び込み・水上運動会等の水泳訓練を行っていた。参加者増加に伴い、3年後に茗荷屋を本部にした。ここが生家である堀江耕造は、浜松中学校水泳部の中心人物で、田畑政治にとって東京帝大の大先輩でもあり、堀江は浜松高等工業専門学校の教師になり浜名湾游泳協会会長や日本水泳連盟副会長も務めた。」(案内文)

田畑政治は、「日本泳法」(古式泳法)神伝流の浜松中学、浜松商業、掛川中学と水府流の遠州学友会をまとめて「浜名游泳協会」を作り、統一泳法を「浜名湾流」と名付けました。

※「浜名湾游泳協会」公式サイト http://www.hamanawan.jp/

日本人競泳選手が初めてオリンピックに出たのは、大正9年(1920年)の第7回アントワープオリンピックで、出場したのは内田正練(うちだまさよし。浜松中学から北海道帝国大学農学部へ進学)です。日本泳法で泳いで予選落ちしました。内田正練は「これからの時代はクロールだ」と考え、クロール泳法を会得して帰国し、クロール泳法を日本に広めました。(内田正練は、1945年2月、ニューギニアで戦死しました。)

案内板⑦浜名湖弁天島100mプール跡

案内板⑦浜名湖弁天島100mプール跡

「大正10年(1921)、田畑政治の中学・高校・大学の大先輩であり、浜名湾游泳協会の幹事で資産家の長谷川鐵雄が、弁天島に長さ100m、幅30mの海水プールを建設。ここで第1回浜名湾全国競泳大会が開催されたが、大阪の茨木中学校が頂点に立った。田畑らは茨木中の連覇を阻むべく、選手を叱咤激励し、翌年の第2回大会では浜名湾勢が茨木中に勝つことができた。長谷川はプールの横に大衆向けの海水浴場と演芸場を兼ねた楽園と呼ばれる巨大施設を建設した。弁天島は多数の海水浴客で賑わいを見せるようになり、立派な100mプールは楽園プールと呼ばれた。」(案内文)

「弁天島楽園 跡
浜松開誠館の創立者である長谷川鉄雄氏は、大正11年(1922)弁天島土地株式会社を設立し、ここに楽園を建設した。楽園は大衆納涼場で海水浴場としての諸設備や百米のプール、三百坪余りの大浴場、二百五十室からの貸席、五千人が利用できる無料の大休憩場からなり、貸船、遊船、売店、余興娯楽の他、和洋食や飲物を安価で提供する大食堂があり、まさに夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わった。また弁天島は、浜名湾遊泳協会発祥の地であり、楽園のプールを利用し競泳の全国大会が行なわれ、世界的な選手を輩出するなど水泳関係者の間では弁天島の名は全国に知れわたった。当時、弁天島を訪れた松島十湖(浜松市出身)は、「島狭し汽車の吐き出す避暑の客」の句を残してる。しかし、この楽園も北弁天の埋立てが進むと共に経営も悪化し、昭和11年(1936)に終局をむかえた。」(案内文)

浜松城公園から見た浜松開成館

田畑政治は、「試合に勝つためには、茨木中(現在の大阪府立茨木高等学校)のように、プールが必要」と考え、長谷川鉄雄(長谷川貞雄の子。妻・千瀬子は、中村みつ、内田みつと並び「明治期の浜松三女傑」)が有する弁天島に100mプール(通称「楽園プール」)を築いてもらい、第1回浜名湾全国競泳大会を開催しますが、クロール泳法を駆使する茨木中に負けました。田畑政治は、茨木中の連覇を阻むべく、選手を叱咤激励し、翌年の第2回浜名湾全国競泳大会では浜名湾勢が茨木中に勝ち、浜名湾游泳協会の名を全国に広めました。

※「大阪府立茨木高等学校」公式サイト https://www2.osaka-c.ed.jp/ibaraki/

長谷川鉄雄の業績の1つに、大正13年(1924年)4月の誠心高等女学校(現在の浜松開成館)を開校したことがあげられます。

※「浜松開成館」公式サイト http://www.kaiseikan.ed.jp/

案内板⑧古橋廣之進生家跡

案内板⑧古橋廣之進生家跡

「田畑政治とともに水泳ニッポンの礎を築いた古橋廣之進は、昭和3年(1928)9月16日、9人兄弟の3番目で長男として生まれた。父親は体格が良く力持ちで、まつりの時には相撲大会に出るような相撲好きのため、廣之進も相撲取りを目指していた。普段から弟や妹の面倒を見ていたが、食事の時などはおかずの取り合いの競争もあり、協調と競争の原理の中で、人生のノウハウを身に付け、手伝いも自らするようになった。」(案内文)

指導者・田畑政治が惚れ込んだ金メダリストに、浜松一中(現在の浜松北高)の宮崎康二と浜松二中(現在の浜松西高)の古橋廣之進がいます。

宮崎康二は、浜松一中在校時(当時15歳)、田畑政治水上監督に「日米対抗水上大会に出てみないか」とスカウトされ、同大会で同着1位となったことにより、第10回ロサンゼルスオリンピック水泳総監督となった田畑政治に連れられてオリンピックの100m自由形に出場しました。その結果、オリンピック記録で優勝し、開催国アメリカのこの種目7連覇を阻止しました。(銀メダリストも日本人(「硫黄島の戦い」で戦死した河石達吾)でした。「水泳ニッポン」の誕生です!

この第10回ロサンゼルスオリンピックを目指して田畑政治が掲げた目標は、
・水泳の組織を1本化すること
・専用プールをつくること
・信頼するに足る監督を早い段階に決めて、全責任を与えること
・アメリカのベストチームを招いて、地の利を活かして、徹底的にやっつけること
でした。今のスポーツ界にも通じる目標?

さて、今回の故地巡りに宮崎康二の故地が含まれていないのは、宮崎康二が浜松市出身ではなく、湖西市出身だからです。ロス五輪での金メダル、優勝カップ、新記録証等は湖西市複合運動施設アメニティプラザ(静岡県湖西市吉美)の「宮崎康二コーナー」に展示されています。(撮影禁止でしたので、お見せできる写真はありません。)

※「湖西市複合運動施設アメニティプラザ」公式サイト https://www.konami.com/sportsclub/trust/kosaishi/

案内板⑨雄踏尋常高等小学校

案内板⑨雄踏尋常高等小学校

「田畑政治が目をかけた古橋廣之進は雄踏尋常高等小学校山崎分校に通っていたが、4年生から本校に通うことになった。学校でも体格にたがわぬリーダーシップを発揮していたが、自宅近くの浜名湖にできたプールで、連日「魚に負けるものか」と無我夢中で泳ぎ続け、6年生の時の県大会では、100mと200mの自由形で全国学童新記録を樹立し、翌日の新聞には、「豆魚雷あらわれる」という見出しで大きく紹介され、一夜にして注目の的となった。廣之進の活躍もあり、雄踏尋常高等小学校は、全国競泳最優秀校の表彰を受けた。」(案内文)

案内板⑩山崎プール跡・古橋廣之進顕彰碑

案内板⑩山崎プール跡・古橋廣之進顕彰碑

山崎プール跡・復元された山崎プールの観客席

古橋廣之進顕彰碑

「田畑政治が惚れ込んだ古橋廣之進の水泳のルーツは、地元の篤志家である江馬氏が浜名湖畔の一角を板で仕切り、岸にスタンドをつけたの50mのプールにある。当時4年生の廣之進は、父に連れられてプール開きに行った際、突然「お前も水泳選手にならんか」と勧められたことで水泳を始めた。フジヤマのトビウオを顕彰した碑には、廣之進の自署による「力泳三十年」、結びには「私は水泳から「努力」「我慢」「克己」を学んだ」と刻まれ、初の名誉町民(現在は浜松市の名誉市民)となった。」(案内文)

「山崎プールは 昭和9年の夏に地元の旧家江馬九右衛門氏 50米プールを作り雄踏小学校へ寄贈した このプールからは 数多くの精鋭たちが育ち水泳王国を築いていった そして昭和30年の秋にはその役目を終えたが古橋少年もこのプール育ちの一員であった。この碑は これらの由緒に基づき 当時からのスタンドを保存するとともに 郷土の生んだスーパーヒーローの事績をとわに刻むものである古橋廣之進は 昭和3年にこのプール北東150米の地に生まれた 小学4年時からここで泳ぎ始め 6年生の夏には県大会の100・200米自由形で日本学童新記録をマークし「豆魚雷」の異名をとった。浜松二中(西高)から日本大学に進み 昭和22年8月8日に400米自由形で4分38秒4の世界新記録をマーク以後33回にわたり世界新記録を塗り替えた。昭和24年の全米男子屋外選手権に出場 400で4分33秒3 1500で18分19秒0の当時としては驚異的な大記録で優勝 世界中をあっといわせた 「フジヤマのトビウオ」のニックネームがつけられ 敗戦でうちひしがれていた日本人に大きな勇気と希望をもたらした。昭和50年・日本大学教授 昭和58年・紫綬褒章受賞 昭和60年・日本水泳連盟会長 平成2年・日本オリンピック委員会会長 平成5年・文化功労者 平成6年・雄踏町名誉町民」(「古橋廣之進顕彰碑」碑文)

フジヤマのトビウオ」こと古橋廣之進が金メダルをとれたのは、

本人の「努力」「我慢」「克己」によるのか?

父親譲りの頑丈な体の持ち主だったことによるのか?

兄弟9人でおかずを取り合うハングリー精神によるのか?

田畑政治という良き指導者に出会ったことによるのか?

橋爪四郎という良きライバルがいたことによるのか?

引馬城の家老・江馬氏の子孫が作った山崎プールへ行って驚いたのは、

──古橋廣之進の自宅のすぐ近く

ということです。自宅の庭にプールがあるようなものでした。

「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということなのか?

先の案内板⑤に、田畑政治も別荘の目の前が浜名湖であったので、自然に泳ぎを覚えたとありました。もちろん、「泳げる」と「誰よりも速く泳げる」とは違いますけどね。

ちなみに、金栗四三のお墓の記念碑には「体力 氣力 努力」とあります。

案内板④浜松市営元城プール跡

案内板④浜松市営元城プール跡

「浜松市は市制40周年記念事業で市営プール建設を決定。昭和25年(1950)には日本水泳連盟会長の田畑政治が日米対抗の水泳大会の浜松開催を発表し、4カ月間の突貫工事で50m9コース、1万2千人収容の国内有数のプールを竣工させた。開設記念として8月8日には日米交歓水上大会を開催。日本代表として古橋、橋爪、浜口等、アメリカ代表としてマックレーン、マーシャル、コンノ等の世界的なスターが登場して超満員の会場を沸かせた。試合後には、田畑の計らいで、日米の選手たちは弁天島の旅館に宿泊して浜名湖で遊んだ。米国チームが、この年に水上大会に出場したのは、東京・浜松・大阪のみであった。」(案内文)

以上。今回「田畑政治ゆかりの地」(浜松市内11ヶ所)を回って分かったのは、田畑政治と古橋廣之進の生い立ちであり、『いだてん』で描かれる「どうやって東京にオリンピックを招致するか」は分かりませんでした。気になったのは、

──昭和12年(1937年) 浜松一中50mプール竣工記念に日米水上競技大会を開催する。

──昭和25年(1950年) 浜松市営元城プール竣工記念に日米交歓水上大会を開催する。

ですね。母校愛というか、郷土愛というか・・・ボクシング界の奈良判定にしても・・・(以下略)

次回からはお城訪問記に戻ります。

※関連サイト:
城田涼子(きだりょうこ)のお城旅

城田涼子

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城田涼子(きだりょうこ)
旅が好きです。 戦国時代の史跡巡りとか、温泉巡りとか好きです。美味しい郷土料理も(笑) 
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