大正&昭和

【死刑の恩赦を拒み23歳で獄死】金子文子の虐待・無籍者・貧困の人生「何が私をこうさせたか」

「現に在るものをぶち壊すのが私の職業です」。

映画『金子文子 何が私をこうさせたか』(2月28日公開)のキャッチコピーです。

大正時代を生き23歳の若さで亡くなった作家・アナキストだった主人公の金子文子(かねこふみこ)。演ずるのは菜葉菜(なはな)さん。

メジャー作品はもちろんのこと、数多くのインディーズ映画で主演を務め「インディーズ映画の女王」ともいわれる俳優さんです。

2026年は金子文子の没後100年にあたり、映画公開に伴って監督や主演俳優のインタビューを各所で見かけます。

今回は、壮絶な人生を送った金子文子と監督が「何を訴えたかったのか」を探ってみました。

画像 : 金子文子 public domain

金子文子そのものを描く

金子文子は、恋人で同志の活動家・朴烈(パクヨル/ぼくれつ)とともに検束され、その後、大逆罪で起訴されました。
※大逆罪:天皇・皇族に危害を加える犯罪

1926年(大正15年)3月に死刑判決を受け、その後、恩赦で無期懲役に減刑されましたが、同年7月、宇都宮刑務所栃木支所で23歳の若さで獄死しています。

映画では、裁判の際「現に在るものをぶち壊すのが私の職業です」と挑戦的な表情で答える文子。「死刑判決」を下された瞬間は、両方の拳を天に突き上げ「万歳〜!!」と笑いながら叫びます。

さらに、減刑の恩赦状を「ふざけるな、人の命をおもちゃにして!」と怒りの形相を浮かべ、めちゃくちゃにもみくちゃに。
映画は、文子が死刑判決を受けて獄中死するまでの最期の約121日を描いています。

文子は幼少期に親に捨てられ、身を寄せた先の祖母にはひどい虐待を受け続け、貧困に喘ぎ続け働いて働いても生活は楽にならず……非常に過酷な経験を経て無政府主義となりました。

彼女の獄中記を読んだ浜野佐知監督は、その壮絶な人生を描きたいと思ったそうです。
浜野監督は映画会社の就職条件が「大卒・男子」という男社会の時代に、「民主国家日本で女になれない職業があってたまるか!」と、ピンク映画の世界に飛び込み、数多くの作品を残している監督です。

浜野監督は過去に作られた文子の映画を見て、「活動家の恋人に寄り添った可愛い女」に描かれていることに違和感を覚え、朴烈とセットではない人間・金子文子そのものを描きたいと決断しました。

実際、文子は「同棲はしても活動面では女性と扱わず『同志』とすること」と朴烈に宣言をする強い意思を持つ女性でした。

画像:朴烈に寄りかかる金子文子。予審中に撮影されたもの public domain

父親に捨てられ母と極貧生活を送る少女時代

金子文子著『何が私をこうさせたか――獄中手記』には、克明に幼い頃の記憶が綴られています。

文子は、明治36年(1903)に神奈川県横浜市で誕生しました。
父は若い女性を家に連れ込み家庭を顧みない人で、娘を戸籍に入れませんでした。そのせいで、文子は無戸籍者となり学校にも行けませんでした。
その後、父は家出、母は別の男たちと同棲しますがうまくいかず、貧困生活が続きます。

文子は9歳ごろ、朝鮮にいた父方の祖母に引き取られることになります。
希望を抱いて朝鮮に渡りましたが、祖母の家では酷い生活が待っていました。何も与えてもらえず「お前は無籍者だ」と蔑まれ、女中扱いされたのです。

手記によると、祖母は次から次へとあの手この手で文子をいじめ抜きます。

正月の雑煮も食べさせない、氷点下の冬外に追い出す、奴隷のようにこき使う、下駄のまま蹴り倒す、暑い夏に倉に閉じ込める……よくもこれだけいじめネタが思いつくものだと呆れるほどです。

学校でも粗末な扱いを受けた文子にとって、山の中に入り植物の変化を眺めたり落ちている実を拾ったり、野生の動物に話しかけたりすることが唯一の心休まるひとときでした。

けれど、あまりにも酷い日々に死を決意し、淵に飛び込んで死のうとします。

すべてに別れを告げようとしたその時

〜「ああ、もうお別れだ! 山にも、木にも、石にも、花にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに……」そう思った刹那、急に私は悲しくなった。
祖母や叔母の無情や冷酷からは脱がれられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。〜

(手記より)

絶望し死を決意した13歳の少女が、その瞬間「世の中には愛すべきもの、美しいものが無数にある」と思える感性はすごいものです。

文子がこの手記で、祖母のもとで過ごした7年に及ぶ過酷な日々を詳しく書き残したのは、自分がなぜ屈折した性格になっていったのか、その背景を伝えておきたかったからでした。

16歳の頃、文子は日本に返されます。

画像:山奥の自然 photo-ac ゼロワークス

日本に戻っても貧困の日々は続く

日本に戻った文子は、母方の叔父の家に身を寄せました。

そこへ自分を捨てた父が引き取りに現れ、いったんは父の家へ移ります。けれど、文子にとって父は「見栄っ張りで下劣で頭が空っぽ」な存在で、到底そりの合う相手ではありませんでした。

父の家を出て再び叔父のもとへ戻るなど、居場所の定まらない生活が続きます。それでも、「本を読んでいろいろなことを知りたい」という意欲だけは失いませんでした。

17歳になると、文子は東京へ行く決心を固めます。

東京では大叔父の家にやっかいになりますが「女に学問はいらない」という考えの叔父とは合わず、新聞店に住み込みで働きながら、学校に通う生活に入っていきました。

しかし新聞販売と学業の両立は厳しく、おかみさんに子供の世話までさせられる毎日・・・疲れ果てた末に、そこも出ることになります。

その後、学校で同じクラスだった伊藤という男性が部屋を借りてくれ、文子は石鹸販売の仕事を始めました。ところが、どれだけ頑張っても商品は売れず、食事も満足に取れない状態が続きます。

伊藤に相談しても、クリスチャンだった彼は「苦しいときは祈れ。祈りが力を与える」と答えるばかりでした。

文子も一時はその影響を受けて神と人に奉仕しようとしましたが、祈りでは生活は何も変わらないことを思い知り、しだいに気持ちが冷めていきます。

〜基督の教えるところは果して正しいのであろうか。それはただ、人の心をごまかす麻酔剤にすぎないのではなかろうか。〜

(手記より)

その後、伊藤に世話してもらった部屋を出て、砂糖屋で女中奉公をしました。
しかし、そこでもろくに休憩時間は与えられず報酬もわずかだったため、ほどなくして飛び出します。

あちこちに居候する暮らしの中で、文子は学校で2人の社会主義者と知り合いました。

幼い頃から貧困の中でこき使われ、いじめられ、支配されてきた文子は、自分の中に搾取する側への強い反感があることに気づきます。

そして同時に、自分と同じように抑圧され、搾取されている人々への共感を深めていったのです。

〜私達哀れな階級のために、私の全生命を犠牲にしても闘いたい。〜

(手記より)

画像:明治3年頃の横浜の教会(三代目歌川広重)public domain

「犬の詩」に、血が踊るほどの感銘を受ける

社会主義者が集う店で働くようになった文子は、ある詩に出会い、その力強さに恍惚とし血が踊るほど感銘を受けました。

私は犬ころである
空を見てほえる
月をみてほえる
しがない私は犬ころである
位の高い両班の股から
熱いものがこぼれ落ちて
私の体を濡らせば
私は彼の足に
勢いよく熱い小便を垂れる
私は犬ころである

この詩のどこがいいのかと聞かれた文子は、「長い間自分の探していたものを、この詩の中に見出したような気がします」と答えています。

それは、朴烈(パクヨル/ぼくれつ)という青年の詩でした。

文子は朝鮮の祖母の家で、極寒の中を外に放置されていた飼い犬に同情し、ムシロをかけたり、ぎゅっと抱きしめたりして可愛がっていました。

日本に戻ってからも、叔父の家で飼われていた犬を可愛がっており、自分と犬をいつも結びつけて考えていたようです。
だからこそ、「しがない私は犬ころである」という一節に強く心を揺さぶられたのでしょう。

その後、朴烈に出会った文子は、困窮した暮らしをしているはずの彼に「まるで王者のような風格」を感じ、しだいに距離を縮めていきました。

心を通わせた2人は未来を語り合うようになり、やがて彼女のほうから「私が学校を出たら、すぐに一緒になりましょう」とプロポーズします。

文子の手記はここで終わっています。

死刑が恩赦で無期懲役になるも刑務所で死亡

画像 : 朴烈(パク・ヨル)public domain

その後、2人は「不逞社」という結社でアナキズムを広めるため、雑誌の発行などに取り組みました。

しかし大正12年(1923)9月3日、保護検束の名目で身柄を拘束されます。

取調べを経て、1925年7月、2人は大逆罪および爆発物取締罰則違反で起訴されました。
1926年3月25日に死刑判決を受けますが、4月には恩赦によってともに無期懲役へ減刑されます。

その後、2人は別々の刑務所に移され、文子は7月23日早朝、独房内で縊死したとされています。(諸説あり)

獄中手記『何が私をこうさせたか』は、死刑を意識した文子が遺書として書き残したもので、没後5年にあたる1931年、栗原一男の手によって刊行されました。

この手記で印象的なのは、虐待や貧困に苦しんだ自分の境遇を、どこか突き放すような視線で記していることです。
その一方で、山の風景や植物の描写は驚くほど生き生きとしており、肌を撫でる風や木々の匂いまで伝わってくるようです。

映画の中で、文子が若い女囚に自分のペンとともに託した言葉。

「ともかく、自分の目で見て、自分の頭で考える。すべてはそこからだろう。」

これは、浜野佐知監督が伝えたいメッセージでもあるでしょう。

参考:金子文子『何が私をこうさせたか――獄中手記』 (岩波文庫)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
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