
画像:『長篠合戦図屏風』(部分、徳川美術館蔵)。屏風に描かれるのは武将と鉄砲足軽だが、合戦の周縁で何が起きていたかは絵に残らない。public domain
戦国時代、合戦が終わると、足軽たちは敵の首ではなく民家へ走った。
米を奪い、家財を漁り、逃げ遅れた人間を捕らえるためである。当時の合戦には、勝敗が決した直後に始まるもう一つの戦場があった。
これは「乱取り」と呼ばれる略奪行為である。
だが乱取りは、戦国の軍事動員を下支えした重要な仕組みの1つだった。
略奪は「給与」だった
戦国大名が動員する兵の多くは、武士ではなく足軽や雑兵だった。
彼らの多くは半農半兵で、ふだんは田を耕し、戦があれば召集に応じて戦場へ向かった。
だが、こうした兵に十分な報酬を与える余裕を持つ大名はまだ少なかった。上級の武士には知行や扶持があっても、臨時に動員される雑兵にはそれがない。
そこで兵たちは敵地の村に押し入り、食料や財物を奪い、捕らえた人々を連れ去った。大名側もこれを公然と許すか、見て見ぬふりをした。
つまり乱取りは、単なる無秩序な暴力ではなかった。
兵に「勝てば奪える」という見返りを与え、動員の負担を現地で回収する仕組みとして、戦国の軍事を支える一部になっていたのである。
人が「商品」になる場所

画像:『大坂夏の陣図屏風』 public domain
乱取りで捕らえられた人間は、その場で売買された。
合戦ののち、捕らえられた人々が売買された例は史料に見える。甲斐国の富士山北麓では、こうした人身売買の実態が『妙法寺記』『勝山記』などに記録されている。
価格は一様ではなかった。史料上には、20文、30文ほどで人が売買されたとみえる例もある。
捕らえられた人々は労働力として使役されたり、転売されたり、家族の手で買い戻されたりした。
買い手は地元の商人や寺社、ときには他国の大名の家臣だった。
戦国時代の戦争は、人間が商品として流通するビジネスの側面もあったのだ。
海を渡った人々

画像:南蛮屏風(16〜17世紀、狩野内膳筆とされる、リスボン国立古美術館蔵)。長崎に入港するポルトガル船と荷揚げの様子。この船が運んだのは鉄砲や生糸だけではなかった。public domain
16世紀後半になると、こうした人身売買は新たな買い手を得て、より広域的なものになっていく。
その担い手の1つが、ポルトガル商人だった。
1543年の鉄砲伝来以降、ポルトガル人は日本との南蛮貿易を拡大した。彼らが日本にもたらしたのは鉄砲や火薬だけではない。アジア各地に広がっていた奴隷貿易のネットワークもまた、日本と結びついていった。
国内で売られた日本人の一部は、ポルトガル商人の手からマカオなどアジアの拠点へ運ばれた。そこからさらに、ゴアや東南アジア各地、インド、さらにはポルトガル本国へと移送されていった。
移送先では、男性は労働力や護衛として使役され、女性は家事労働や性的搾取の対象とされた。
さらに近年、ポルトガル出身の歴史研究者ルシオ・デ・ソウザらの研究によって、日本人が大西洋や太平洋を越え、メキシコやペルー、アルゼンチンにまで渡っていたことを示す記録も確認されている。
つまり16世紀後半から17世紀にかけて、日本人の一部は大航海時代の奴隷貿易の網の中に組み込まれていたのである。
秀吉は何に怒ったのか

画像 : バテレン追放令(天正15年6月19日付、松浦史料博物館蔵)。冒頭に「日本ハ神國たる處」と記される五か条の本文。この前日に作成された十一か条の「覚」には、日本人の海外売買を「曲事」とする条文が含まれていた。public domain
天正十五年(1587年)六月、九州平定を終えた豊臣秀吉は、筑前箱崎で「バテレン追放令」を発した。
この追放令は一般にキリスト教布教の禁止として語られるが、その前日に作成された十一か条の「覚」には、別の論点が含まれている。
「大唐、南蛮、高麗へ日本仁を売り遣わす事曲事(けしからぬこと)」と明記されているのである。
日本人を海外に売り飛ばす行為を、秀吉は明確に問題視していたのだ。
秀吉はイエズス会日本準管区長のコエリョを呼び出し、ポルトガル人による日本人売買を詰問した。
コエリョの回答は「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからだ」というものだった。
売る側の責任を問い返されたわけだが、秀吉はこの回答に激怒し、翌日に五か条の追放令を発した。
だが、コエリョの指摘には見過ごせない現実が含まれていた。実際に日本人を売っていたのは日本人だったからである。
ただし、追放令の理由は人身売買だけではなかった。
キリシタン大名による寺社破壊、宣教師の政治的影響力、さらに領土支配への干渉など、複数の問題が絡んでいたのである。
しかも秀吉自身、ポルトガルとの貿易まで断つつもりはなかった。
実際、追放令は宣教師の退去を命じながら、商人の渡航までは禁じていない。秀吉は人身売買への強い反発を示す一方で、通商の利益は別に扱おうとしたのである。
合戦の「裏面」が問いかけるもの

画像:戦場から港へ。乱取りで捕らえられた人々は南蛮船に乗せられ、世界中に運ばれた ※イメージ
興味深いのは、乱取りの抑制が道徳論よりも先に、兵農分離という制度改革によって進んだ点である。
織田信長や秀吉は、足軽に給与を与えて常備軍として組織化し、兵を農村から切り離して城下町に集住させた。
俸禄で養う体制が整えば、略奪に頼らず軍を動かすことができる。秀吉が自軍の略奪に厳しく対処したのも、そうした軍制の変化を背景としていた。
つまり乱取りは、軍事制度の構造転換によって抑え込まれていったのである。
問題を断つには表面の行為だけでなく、それを支える仕組みに手を入れなければならない。
乱取りの歴史は、そのことをよく示していると言えるだろう。
参考文献 :
藤木久志『雑兵たちの戦場──中世の傭兵と奴隷狩り』朝日新聞社、1995年(新版:朝日選書、2005年)
ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷──アジア・新大陸・ヨーロッパ 増補新版』中公選書、2021年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部























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