小早川隆景の生い立ち
小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、天文2年(1533年)に戦国大名・毛利元就の三男として生まれました。
小早川の名は、竹原小早川家の養子となったことから名乗ったものですが、この家は分家の小早川家でした。
天文13年(1543年)に隆景は12歳にして、竹原小早川家の当主を受け継ぎます。
隆景の初陣は、これより3年後の天文16年(1547年)で、当時毛利氏と協力関係にあった大内義隆の備後神辺城攻めに加勢した戦だったと伝えられています。隆景は初陣にもかからわず、神辺城の支城の龍王山砦を、自らが率いた小早川軍のみで攻略する功を挙げたとされています。
天文19年(1550年)には、父・元就と大内義隆は小早川家の本家・沼田小早川家の支配を画策します。
この策略が成功し、隆景は沼田・小早川家の家督も相続、沼田・竹原の小早川家を統合した当主の座に着きました。
こうして主家・毛利家を支え「毛利両川」と後に称されることになる、小早川家が形成されたのでした。
水軍の小早川家
小早川家は、元々竹原の港を中心とした水軍を傘下に従えた組織であり、隆景にもその勢力は継承されていました。
殊にその名を馳せたのが、弘治元年(1555年)の陶晴賢との「厳島の戦い」でした。
この戦は、主家の大内家を下克上で倒した陶晴賢が、毛利家と争ったものでした。
現在では世界遺産にも指定されている、瀬戸内海の小島・厳島。この島に陶晴賢(すえはるたか)の軍勢が上陸しており、数の上では寡兵であったにも関わらず、毛利勢は鮮やかな奇襲でこれを破ったと伝えられています。
この勝利によって、毛利の名は一躍世に知られることとなり、その勝利に大きく貢献したのが隆景が率いた水軍と、隆景が味方に引き入れた瀬戸内最大の水上勢力・村上水軍だったとされています。
この後、大内氏を滅ぼし周防・長門を手に入れた毛利家は、当主・元就が形式上隠居し、家督を長兄の隆元が継承します。しかし隆元は永禄6年(1563年)に急死、その子の輝元が当主となります。
隆景は、未だ若年の輝元を次兄で吉川家当主・元春とともに支え、毛利の中国制覇に貢献しました。
兄・元春が主として軍事面を、隆景が政治・外交を担当する両輪の関係であったと言われています。
織田家との戦い
大内家や尼子家の勢力を排除し、中国地方で最大の勢力となっていた毛利家は、西からの織田家の圧力を受けるようになっていました。毛利家から離反して織田家側に与する勢力が勃興し始めてきたのです。
こうした中、隆景は天正3年(1575年)に織田家の動きに呼応し、九州から侵攻を図る大友家に対し、水軍を率いて戦っています。
更に天正4年(1576年)、毛利家を頼って将軍・足利義明が落ち延びてくると、これを援けて織田家に対抗し、信長包囲網の一角を成す勢力なりました。
殊に大阪の石山本願寺が包囲された際の「第一次木津川口の戦い」では、小早川水軍・村上水軍の毛利勢が織田の九鬼水軍を破り、本願寺に物資供給を行ったことが知られています。この戦いでは、織田方の船に対して火計を用いた戦術で勝利したと伝えられています。
しかし、続く天正6年(1578年)の「第二次木津川口の戦い」では、前回の教訓から火に強い鉄甲船を投入してきた九鬼水軍に敗れ、水上戦でも劣勢に建たされるととなりました。
織田家の中国侵攻は勢いを増し、天正7年(1579年)には備前の宇喜多直家が織田に臣従しました。
翌、天正8年(1580年)には播磨の三木城、続く天正9年(1581年)には因幡の鳥取城を落とされてしまいました。
備中高松城での和睦とその後
そしてついに天正10年(1582年)、後世に語り継がれる「水攻め」となった、備中高松城の包囲戦が起こりました。
毛利は隆景を始め、兄・元春らが主力を率いて後詰に向かいましたが、城に近寄れず、両軍が水没した城を挟んで対峙したままだったと伝わっています。
そんな折に、京では「本能寺の変」が発生し、秀吉は「大返し」を行うべく、信長の死を秘して毛利との交渉を進めました。結果この秀吉の策・駆け引きにうまく欺かれた状態で和睦、毛利勢は兵を引いた
とされています。
巷説では、和睦の後に信長の死を知った毛利では、兄・元春らを始めとして、欺いた秀吉を追撃しようとする意見もあったと言われています。
しかし、隆景は父・元就の教えである「(毛利家は)天下を望むべきではない」という観点から、追撃に異を唱えたとされています。
遺訓・戒めの通りに現有の中国地方の支配地を守ることに専念すべきであり、徒な戦に反対したものであろうと推測されています。
この点があくまで武人であった兄・元春と、お家のためには、政治的な判断を優先させた隆景との違いではないかと思われます。
以後、秀吉が天下統一を進めていく中、隆景は協力を惜しまず、秀吉からの絶大な信任を受けて豊臣政権の五大老を務めることになりました。
更に秀吉の甥であった羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が毛利本家の養子となることを断り、自らの養子としたことで、毛利本家を守ったと伝えられています。
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