江戸時代

葉隠(はがくれ)【戦前は軍国主義のそしりを受けるも忠義を説いた書】

武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり

「葉隠(はがくれ)」と言えば多くの方が、あまりに有名な一文「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」を連想されるのではないでしょうか。

この一文から、死ぬ事そのものがまるで美徳であるかのような誤解の下、さらに太平洋戦争時の軍部による精神論に利用された経緯もあり、多分に不正確に伝えられているなと思われます。

様々な解釈がある一文ではありますが、この文には続きがあり、武士たる者、生きるか死ぬかの二択を迫られた際には、躊躇なく死を選ぶべきとされています。

その理由は、その二択を選ぶ時に必ず正しい結果を選ぶとは限らず、仮に生きる側を選択してそれが間違っていた場合には恥辱を受けることになるとしています。よって死を選ぶことでそれを避ける覚悟をしておけば、いざというときに「」を晒さずに済み、それこそが武士の在り方だと延べているものです。

決して単なる「」を進めているものではないと考えられます。

葉隠 成り立ち

葉隠

葉隠」は、江戸時代中ばの18世紀初頭(1716年頃)に記された書で、肥前の佐賀鍋島藩士・山本常朝が語った内容を、同藩士の田代陣基が記述したものとされています。
冒頭のように戦前・戦中に軍によって利用されたこともあって、戦後には軍国主義を体現するものとして排斥を受けたこともありました。

しかし、書かれた当時も実はすぐには受け入れられなかったと伝えられています。これは「葉隠」の内容がその当時の主流であった儒学的な武士の在り方を批判していたためとされています。

具体的には、当時の主流だった「主君に対する忠義」を巡る思考にあり、「これこそが忠義」という物はなく「全ての物事に対する在り方」の中に「忠義」があるとする、行動に「忠」を見出すものと言う点です。

また、佐賀鍋島藩の祖である鍋島直茂こそが武士の鑑であり、同時に旧主である龍造寺氏と鍋島氏の両者に対する記述がみられ、鍋島氏の支配の正当性を示した内容となっています。

赤穂浪士を批判

※吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

そもそも、山本常朝(やまもとつねとも)自身が、万治2年(1659年)から享保4年(1719年)にかけて生きた武士であり、徳川幕府の支配が遍く及んだ太平の世の人物です。

その中で、武士の在り方を追求したものとして「葉隠」が口述されましたが、どんなことでも主君への忠義を尽くことこそすべてであるとするその思考は、佐賀鍋島藩出身の大隈重信からも批判をされています。

興味深いのは、赤穂浪士として有名な江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭の一件について、主君・浅野長矩の切腹の後に即仇討ちを行わなかったこと、浪士らが吉良を討ち取ったときにすぐに切腹を行わなかったことを非難している点です。

当時、幕閣内においてもその処分に頭を悩ませたとされる事件について、ここまで批判することは幕府に対して相当非礼な事であり、そのまま公表することは憚られたのではないかと思われます。

三島由紀夫の影響

※三島由紀夫 31歳(1956年)

そうした忠義を巡る考え方から、主流であった儒学的な武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と揶揄するなど、決してその時代においても一般的な考え方ではなかったのではないかと思われます。

「葉隠」は全11巻にわたる書物ですが、その書の内において、学んだ後には焼却してしまうように唱えられていたことも手伝って、佐賀鍋島藩において秘されていた書でもあり、原本は残っておらず、写本が残されています。この「葉隠」がいつしか佐賀鍋島藩において藩士の教育に重要視される事となったと言います。

今日その存在をしられることになったのは、作家・三島由紀夫が「葉隠入門」を著したことからだと思われますが、ある種の処世訓として再評価されています。

 

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 坂下門外の変【厳重な警戒の中で失敗した水戸藩士らの襲撃テロ】
  2. 「滅びゆく徳川幕府に殉じた忠臣」 川路聖謨(かわじとしあきら)
  3. ランドセルは江戸時代から使われていた 【初めてランドセル登校した…
  4. 板部岡江雪斎 【北条三代、秀吉、家康に仕えた天下の外交僧】
  5. 脇坂安治 – 日本より韓国で有名な豊臣の水軍大将
  6. 徳川家光に諫言しすぎて嫌われた 青山忠俊の心 ~「東京・青山の由…
  7. 病気の主人の代わりに、犬が一匹で江戸からお伊勢参りしていた『おか…
  8. 筆頭家老が暴走して最悪な結果となった「会津騒動」※江戸初期の大事…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

ナポレオンがなぜ強かったのか調べてみた【戦術、国の土台、有能な部下】

ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 18…

天才軍略家・源義経に欠けていたもの…『平家物語』逆櫓論争エピソードを紹介【鎌倉殿の13人】

源平合戦のヒーローと聞いたら、多くの方が思い浮かべるであろう源義経(みなもとの よしつね)。…

毛沢東の4人の妻たち 〜その哀れな最後 「愛と権力に翻弄される」

毛沢東毛沢東は、中華人民共和国の建国者として、その名を歴史に刻んでいる。その業績…

【太宰治の子を産んだ愛人】 太田静子とは ~「斜陽のひと」と呼ばれた女性

「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。」これは太宰治の小説『斜陽』に出てくる有名な一節だ。…

朝廷から特別な崇敬を受けた「二十二社」を紹介 ~王城鎮守を任された22の神社

平安時代の中頃になると、諸国に赴任した国司が幣帛(へいはく)を地元の有力神社に頒布する、国司神拝が行…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP