「海賊」という言葉で思い浮かぶのは身近なところでいうと大人気コミックの「ワンピース」であろう。
それを置いておいて歴史に目を通してみても大航海時代の黒ひげやジョン・ジャック・ラカムなどの西洋色の強いイメージが大きい。
それでは、日本ではどうだろうか?
有名なところでは村上海賊で名を馳せた村上武吉が日本の海賊として最も知名度が高いのは事実である。
しかし、日本の海賊で有名な人物は実はもう1人いた。名前は九鬼嘉隆(くきよしたか)。織田、豊臣に仕え九鬼水軍を率いた海賊である。
その功績から海賊大名と呼ばれるようになった嘉隆はどんな人生を歩んできたのか。本稿ではそれを探ってみたいと思う。
前途多難な始まり
九鬼嘉隆は天文11年(1542)、波切城で生まれた。兄には浄隆がいる。
九鬼氏は伊勢国司・北畠氏に従属している地頭だった。九鬼氏のいた志摩国(現在の三重県)には九鬼氏の他に12人の海賊地頭がいたが、勢力は九鬼氏が圧倒的に大きかった。
九鬼氏の勢力拡大を危惧した12人の海賊地頭は北畠具教(きたばたけとものり)と協力し、浄隆のいる田城城を攻めた。嘉隆は浄隆救援のため、共に田城城で籠城をするが、浄隆が病死をしてしまう。
浄隆の子の澄隆を当主にした九鬼氏だったが、戦意を喪失してしまい敗走。嘉隆たちは朝熊山へ逃亡し、その後は逃亡生活を送るようになる。
永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、勢いに乗っていることを知ると滝川一益を通じて信長に接触し、永禄11年(1568)に正式に家臣団に加わった。
織田家臣での活躍
永禄12年(1569)信長が具教を攻める際に水軍を率いて支城の大淀城を陥落させる。その後も織田軍は数々の城を落とすが、具教が大河内城に籠ると約2か月の間落とすことができず、信長の次男、信雄を養子にすることを条件に和睦した(大河内城の戦い)。
嘉隆はこの勢いに乗り、因縁の相手である志摩の地頭たちを打ち破り、志摩国の統一に成功している。その功績により、志摩国の領有権と九鬼氏の家督を継ぐことを認められた。しかし、諸説あり信長死後の天正11年(1583)に嘉隆は澄隆を殺害して家督を奪ったともいわれている。
その後は天正2年(1574)に起きた伊勢長島の一向一揆を海上から援護し鎮圧に貢献した。これによって陸での補給路を断たれた石山本願寺は毛利水軍を頼り海上から物資の補給を行うが、それを阻止する織田軍と天正4年(1576)に摂津木津川で海戦になった(第一次木津川口の戦い)。
嘉隆は300隻を率い、毛利水軍と村上水軍率いる600隻と対峙するが、焙烙玉や焙烙火矢によって船の大半を焼失や名だたる武将の討死によって大敗を喫してしまった。この戦果に激怒した信長は燃えない船を作るように命じ、嘉隆は苦労の末、船を鉄で覆った鉄甲船を建造することに至った。
それから2年後の天正6年(1578)嘉隆は鉄甲船6隻を率い、再び600隻率いる毛利水軍らと海戦を行った(第二次木津川口の戦い)。鉄甲船の破壊力は凄まじく、600隻を打ち破ることに成功して、大勝利を収めた。
嘉隆はこの功績により、新たなに領地を加増され3万5000石の大名になるのだった。
豊臣家臣での活躍
本能寺の変(天正10年、1582)での信長の死後、信雄に仕えていた嘉隆は天正12年(1584)に起きた小牧・長久手の戦いで滝川一益によって豊臣秀吉陣営に寝返りをする。その後も秀吉に仕え、九州征伐や小田原の役にも参陣し、水軍の頭目として重用されていた。
そして、天正20年(1592)に始まった文禄の役では海上を指揮する水軍総大将に命じられ、沖島の戦いや熊川の戦いで勝利を重ねていった。
しかし、李舜臣(り しゅんしん)に朝鮮水軍の指揮が譲られると戦況は一変する。
李舜臣に連戦連敗をしていた日本水軍は閑山島海戦で決定的大打撃を負ってしまう。海戦は困難と判断した嘉隆は陸上で朝鮮水軍を迎え撃ち、撃退に成功している。
続く慶長2年(1597)の慶長の役には文禄の役の大敗の責任か高齢により参陣せず、家督を子の守隆に譲り隠居する。
九鬼嘉隆 徳川には仕えず
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いには西軍として隠居の身ながら出陣。守隆は東軍に与しているのでどちらが勝っても九鬼氏が今後生き残れるようにするための戦略だった。
嘉隆は娘の夫である堀内氏善と共に、徳川家康が会津征伐に行っていて手薄になった鳥羽城を奪取した。
しかし、関ヶ原で行われた本戦が半日で終わり、西軍が壊滅してしまうと鳥羽城を捨て、答志島(とうしじま)へ逃亡した。答志島へ逃げた嘉隆は、西軍に与した嘉隆がいると今後の九鬼家の先行きが暗くなると未来を案じた家臣の豊田五郎右衛門の進言により、守隆に迷惑をかけたくない想いから自害を決意し、和具の洞仙庵で自害。59歳の生涯は幕を閉じた。
実は守隆は嘉隆の助命嘆願を家康に乞い、守隆の功績から許されていたため、命を落とす必要はなかったのである。
最後に
水軍の頭目として織田豊臣政権の中で、海上の支配者となった嘉隆。
だが、その輝かしい栄光の裏には逃亡生活や毛利水軍から受けた大敗などの苦労から学び取り、着実に己の力としてきたことが朝鮮出兵での水軍総大将という大役に抜擢されることができたのだと思う。しかし、最後は九鬼家の未来を案じ、家の為にとはいえ命を落としてしまったことは家の存続が命である戦国時代の悲しい遺産なのだと思ってしまう。
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