猪と揶揄された 塙団右衛門
新年号を迎える2019年の干支は猪である。
猪というと何も考えずただ突き進む猪の行動を含めた『猪武者』という所謂、策もなしに敵陣に突っ込む無謀な武将の代名詞になっている。
今回は仕えていた主君から猪と揶揄された塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)についてまとめてみたいと思う。
この人物はよく名前は知られているが実際は何をしたのか知られていないことも多い。そのような部分もわかいやすく説明したいと思う。
尚、本稿では通称で知られている団右衛門で統一させていただく。
多く推測される素性
団右衛門は生まれが多く推測されており、織田家家臣で同性の塙直政の血縁者ということや、上総国(現在の千葉県一体)の出身であるということのように、しっかり定まっていない。
また、団右衛門は真田幸村や伊達政宗と生まれた年が一緒の永禄10年(1567)とされているが、前半生も不明なことが多い。
織田家家臣の坂井政尚(さかいまさひさ)に仕えて、後に織田信長の元で武士としての身分を貰うが、酔うと人を殺めてしまうくらい酒癖が非常に悪いため、それが原因で浪人となってしまったということや、小田原に強大な勢力を誇っていた北条氏の北条綱成(ほうじょうつなしげ)に仕えていたが、1590年の小田原征伐によって北条氏が滅んだ後に浪人として諸国を放浪したというなど、生まれと共に明確ではないことが多い。
加藤嘉明の家臣として
団右衛門についての活躍や行動がはっきりわかるようになるのは小田原征伐から朝鮮出兵のころからである。
このころから賤ヶ岳の七本槍の1人である加藤嘉明(かとうよしあき)の家臣として活躍するようになる。団右衛門は浪人だった時に豊臣秀次の家臣の小姓たちの計らいによって嘉明に召し抱えられるようになったとされている。
嘉明に仕えた後は共に文禄の役に出陣し、4反(1.3m×10m)の身の丈以上もある加藤家の旗、青絹地の日の丸を背負い戦場を駆け、戦功を上げたことにより嘉明に称賛され350石の手柄を得ることに成功する。また、慶長の役では朝鮮水軍をほとんど壊滅させた漆川梁海戦に参加し、警護船である番船を3隻奪う活躍をした。
朝鮮の役後は先ほどの活躍が認められ、1000石の土地を貰う鉄砲大将(鉄砲隊を率いる大将)に出世し、その時に名を塙団右衛門直之と改めて武士としての人生を歩み始めた。
関ケ原の戦いの後、再度浪人に
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは嘉明と共に東軍に属し敵の陽動を任されていたが、嘉明からの一時撤退という作戦変更の命令を団右衛門は鉄砲大将という地位にありながら、無視して勝手に鉄砲隊を出陣させてしまったため、これに嘉明は怒り団右衛門に大将を務める器や能力がなく、ただ刀や槍を振るう猪という意味あいを含んだ言葉を浴びせた。
これには団右衛門も怒りを示し、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」(小さな水に留まることなく、カモメは高く飛ぶ)という意味の漢文を書院の床に張りつけ、嘉明の元を後にした。
先ほどの漢文を詳しくすると嘉明という小さな水には留まるには値せず、団右衛門というカモメは新たな水場を探しに旅立って行くという嘉明の元で出世してきた恩を仇で返すような内容であったため、嘉明はもちろん激怒し、団右衛門が他家に召し仕えることを禁止した奉公構(ほうこうかまえ)を出し、団右衛門を再び浪人の身にしようとした。
しかし、嘉明より格上の小早川秀秋は奉公構であった団右衛門を何事もなかったかのように召し抱え、鉄砲大将とした。しかし、ほどなくして秀秋が亡くなってしまったことにより小早川家の断絶と共に団右衛門は次に徳川家康の息子である松平忠吉に仕えた。しかし、慶長12年(1607)に忠吉が亡くなってしまったので、放浪の身となるが福島正則に仕官し新たな主君とした。しかし、今度は正則が嘉明から奉公構を守るように直談判されてしまい、団右衛門は正則の元を去り浪人になってしまった。
浪人となった団右衛門は仕官を諦めて、剃髪し「鉄牛」と名を改めて仏門に入ることにした。しかし、刀を差したままの姿であったから周囲から団右衛門は不興を買っていた。
本町橋の夜襲
やがて慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると団右衛門は還俗し、徳川方は多勢であるから功を成しても大名にはなれないが、豊臣方なら功を成せば大名になれるという理由から浪人衆に加わり、身分が低かったため大野治房(おおのやすふさ)の元に預けられた。
同年12月17日、豊臣方で和議の案が出されている中、団右衛門は80人ほどの人数で蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の部隊を急襲し、至鎮の家臣である中村重勝を討ち取る戦果を挙げた(本町橋の夜襲)。この夜襲の際、団右衛門は嘉明に大将としての器や能力を見せつけるべく本町橋に置いた腰掛から動かず、指示を出して戦った。また、「夜討ちの大将 塙団右衛門」の木札をばら撒き、名前を売っていた。
その功績が認められ慶長20年(1615)の大坂夏の陣では一軍を任される将の1人として樫井の戦いに参加。
一番槍を狙うため功を焦りすぎてしまい、本隊と距離を広げ過ぎてしまい連携が取れないまま徳川方と交戦になった。そして、団右衛門は奮戦空しく浅野長晟(あさのながあきら)家臣の八木新左衛門に討ち取られて、49歳の生涯を終えた。
最後に
討ち取られる寸前まで名前を知らしめるためにあの手この手を尽くした塙団右衛門。
普通の武将では想像もできない夜襲での木札のばら撒きは、団右衛門の名を知らしめる機会となったと共に、現代でも軍記物や講談などで名を知らしめる機会となっていたのは団右衛門の一番の功績かもしれない。
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