皇帝を取り巻く女性たち
中国5000年。それぞれの王朝の歴史は、夏から始まり清朝で幕を閉じる。
全部で67の王朝が興っては滅亡し、次の王朝へと継承された。
そしてそれぞれの王朝で446名の皇帝が立てられた。
多くのドラマや映画で取り立てられる題材として「王宮での女性の世界」がある。
皇帝の寵愛を勝ち取るために手段を選ばないその女性たちには、正直ゾッとさせられる。中国版「大奥」と言ったところだ。
皇帝には多くの側室や妾、もちろん皇后もいた。中国の皇帝には何千人もの女性たちが仕えていたと言われている。
皇帝は王宮で仕えている女性の中から、いつでも気に入った女性を召し抱える事ができ、だれでも側室になるチャンスがあった。
そんな歴史の中で最も多くの女性を王宮に仕えさせていたのが、唐玄宗である。
あの楊貴妃を寵愛した唐の6代目皇帝である。
長い期間にかけて、なんと4万人を超える女性が唐玄宗に仕えていたという。
周の時代には、皇帝は合法的に120人の妻を娶ることができた。一人の男性に120人の妻とそれ以上の数の妾である。
彼女たちは競って皇帝の寵愛を得ようとし、跡継ぎ問題のために容赦なく人を殺めた。
生涯、妾を持たなかった皇帝
そんな中で、一人の妻しか娶らなかった皇帝がいる。
その皇帝とは、明朝10代目皇帝「弘治帝」である。
先代の皇帝が多くの妾を持っていた中、彼は生涯一人の妻しか娶らなかったという。
それには、彼の幼少期の経験が関係していたとされている。
弘治帝の母親「紀氏」は、戦乱の最中に捕虜として王宮に連れて来られた。
当時の皇帝・憲宗が、ある日通りすがりに彼女に目を止めた。そして彼女を呼び寄せて一晩を過ごした。その時、彼女は後の弘治帝を身籠ったという。
通常なら、皇帝の子を身籠った女性は丁重に扱われ、それなりの地位を与えられるものだが、物事は順調に進まなかった。
憲宗には彼が幼い頃からずっと寄り添ってきた「万貴妃」という女性がいた。
彼女は皇帝との間に男の子が生まれたが亡くなってしまい、その後、子供を授かる事はなかった。
その様な背景もあって、万貴妃は皇帝の子供を身籠った女性に対して辛くあたったのである。
そして憲宗には内密で彼女に暴行を加えて、流産させようと企んだ。
幸運なことに、命じられた女性は実行することができずに月日が経ち、紀氏はひっそりと男の子を産んだ。
しかし産まれてからずっと隠し通すことは困難で、産まれて間もないその子は、すぐに身の危険に晒された。
万貴妃は、男の子を溺死させようとしたり毒殺しようとしたりした。しかし成功する事はなく、母の紀氏は子供を危険のない場所に成人まで預けることができた。そしてその年齢に達すると、改めて皇子として王宮に迎え入れられるように取計らった。
ところが、紀氏は子供を安全な場所に送り出してから、まもなく謎の死を遂げる。
はっきりとした証拠はないが、一連の背景を見ると、万貴妃が手を下したと考えるのが妥当である。
このように、幼い頃から大人のいざこざに巻き込まれた男の子はやがて、明の10代皇帝「弘治帝」となる。
子供の頃の経験から、弘治帝は生涯一人の妻を娶り側室はもたないと決めていた。大勢の側室がいれば多くの争いが起きると言う事を、身をもって知っていたからだ。
その妻になった張皇后は、明るく活発な性格だったという。彼女も弘治帝が幼い頃から側におり、共に成長してきた。
暗い人生のスタートに指す、一筋の光の様な女性であったのだろう。
弘治帝は幼い頃からよく勉学に励み、儒教の教えに陶酔していった。そのお陰もあって男女の愛情に特別な欲求はなかったという。
皇帝になるなら、国を平安に納めればそれで良いという考え方であった。
この様な経緯もあって、弘治帝は非常に珍しい皇后以外の側室を持たない皇帝であった。
生涯を添い遂げたこの皇帝夫婦は、亡くなってからも共に埋葬されたという。
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