安土桃山時代

【影の太閤】豊臣秀長の死と、秀長にまつわる5つの逸話

今回は前編に続いて後編である。

豊臣秀長の死と、秀長にまつわる5つの逸話

画像 : 豊臣秀長 wiki c

着々と天下人への階段を登っていく秀吉、それを支えた秀長だったが、秀長は翌天正14年(1586年)頃から体調が崩れやすくなり、何度も湯治をしていたという記述が残っている。

この頃、秀吉の徳川家康への工作がやっと実を結び、家康は上洛に応じて秀吉に臣従した。

同年、九州の大友宗麟が薩摩の島津氏の圧迫により窮地に陥り、大坂に来て秀吉に助けを求めた。

この時、秀吉は大友宗麟に「秀長に相談せよ」と伝え、秀長は宗麟に「公儀のことは宰相(秀長に)、内々のことは宗易(千利休に)」と言ったという。
秀長と千利休が、この頃の豊臣政権下で強力な力を持っていたことが分かる出来事である。

秀長は豊臣政権の大名統制権限を秀吉から委託され、翌天正15年(1587年)の九州平定では、日向方面の総大将となり尽力した。

病状の悪化

天正17年(1589年)1月1日、秀長は大坂城において諸大名と共に新年祝賀の太刀進上を行うが、これ以降秀長が大坂城を訪れた記録はなく、翌天正18年(1590年)1月頃より秀長の病状が悪化した。

病気は不明であるが、小田原征伐に参加出来ないほどの病状だった。

秀吉は全国の諸大名ら20万の大軍で小田原の北条氏を降伏させ、その後、奥州仕置きを行い、念願の天下統一を実現した。
しかし、その右腕として秀吉を支え続けた秀長の勇姿はそこには無かったのである。

天正19年(1591年)1月22日、秀長は居城・郡山城にて病死、享年52だった。男子がいなかったために家督は養嗣子になっていた甥・秀保に継がせた。

しかしその4年後、秀保はわずか17歳で死去したため秀長の家系は断絶してしまったのである。

秀長にまつわる5つの逸話

(1)秀長は兄・秀吉に家来になる話を持ちかけられるその日まで、母親や近所の人たちと農業に勤しんでおり将来は村年寄になることが夢であったという。

(2)秀長が秀吉の代わりに組頭を務めるようになって何日か後、組内で足軽同士の喧嘩が起きた。秀長は仲裁に入ったが、それを不満に思った喧嘩の勝者が納得がいかないと言うと、秀長は自分の刀を抜いて「斬れるものならこの刀で斬ってみろ」と相手に詰め寄りその場を収めたという。

(3)甥の豊臣秀次は「殺生関白」と呼ばれるほど残酷な行いをしたことで有名だが、なぜか秀長とは仲が良かった。
秀次が戦で失敗した際には秀長が汚名返上の手助けをし、秀長が病気になると秀次は病気回復祈願のために神社に何度もお参りしたという。

(4)四国征伐を成功させ秀長は紀州・大和・河内の領主となったが、この地域は元々自社勢力が強く統治には難儀な場所であった。
しかし、秀長は当時大問題となっていた盗賊の捕縛を通達、それから検地や条例を定めて難しい場所を統治し内政手腕を発揮したという。

(5)秀長は寛大で温厚な性格で秀吉を補佐し、秀吉の欠点をいつも補っていた。千利休と親交が深く、秀長がもし生きていたならば利休は死なずに済んだとも言われている。

おわりに

豊臣秀長の死と、秀長にまつわる5つの逸話

画像 : 秀長の居城 郡山城

豊臣秀長は秀吉同様に農民出身者とは思えないほど頭が良く、度胸もあり、秀吉に無いものを持ち、その右腕として秀吉を補佐した縁の下の力持ちだった。

戦においても作戦をよく練り、秀吉に的確なアドバイスをしたという。

諸大名らは皆、秀吉へのとりなしを秀長に頼み、多くの大名らが秀長を信頼していた。

秀長がもし52歳で亡くならなければ、「影の太閤」として豊臣の天下を永く継続させることが出来たのではないかと評価されている人物である。

関連記事 : 前編 : 【影の太閤】 秀吉の弟・豊臣秀長 「長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」

 

  • Xをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【秀吉に愛され、淀殿と張り合った側室】絶世の美女だったと伝わる京…
  2. 空論(うつろ)屋軍師 江口正吉【信長や秀吉が称賛した丹羽家の猛将…
  3. 【明智光秀とその子孫】 天皇家につながる光秀の血脈
  4. 鉄甲船を率いて毛利水軍を破った武将・九鬼嘉隆
  5. 松永久秀は本当に『戦国の三梟雄』だったのか? ~意外と悪者ではな…
  6. 豊臣秀吉が行った日本史最大級の「茶会・花見・コスプレ大宴会」とは…
  7. 黒田官兵衛は、関ヶ原の戦いのどさくさに本当に「天下」を狙っていた…
  8. なぜ藤堂高虎は11人もの主君に仕えたのか? 「その理由と主君遍歴…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

江戸時代における女性の魅力的な部位とは?「隠す」ことから生まれる官能美

江戸時代の日本人が持っていた美意識江戸時代において、女性の体の中でもとりわけ官能的と意識…

ガネーシャの頭がゾウになった理由、実はかなり衝撃だった『インド神話』

インドと言えばインドゾウ。もちろん異論は認めますが、インドと聞いてゾウをイメージされ…

マッコウクジラの腸結石(アンバーグリス) を海辺で拾えば一攫千金!

龍涎香(りゅうぜんこう)香料として使われるアンバーグリスは、中国では「龍涎香(りゅうぜん…

モンゴルのトゥス・キーズと韓国のポジャギ 「母の愛を改めて知るアジアの装飾文化」

その国の装飾文化を伝える手法といわれる刺繍や伝統技法には、色彩で表現される美しさや、良縁や健…

仏陀と南伝仏教 「ヒンドゥー教における仏陀」

教えを広めながらインダス川流域を旅した仏陀。しかし、彼も老いに抗うことは出来ず、80歳にして…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP