現代でも数学を専門に学ぶ女性は、男性と比べて多くないイメージがある。
数学の大学教授となった最初の女性は、18世紀イタリアに生まれたマリア・ガエターナ・アニェージだった。
歴史を辿れば、数学者を目指した女性達は、少ないが確かに存在した。
彼女達は数学を学んだことで、どのような運命を辿ったのだろうか。
記録に残る最初の女性数学者とは
マリア・ガエターナ・アニェージより以前の女性数学者は、2人存在する。
記録にある最も古い女性数学者は、「ヒュパティア」である。
彼女は、350年から370年頃に東ローマ帝国で生まれた。
彼女の父・テオンは、当時東ローマ帝国の支配下にあったエジプトのアレキサンドリア図書館の所長を務め、数学だけでなく天文学・哲学を学んだ学者だった。
ヒュパティアは、新プラトン主義学派(万物は1つの者から流出したとする考え方)に属し、新プラトン主義の哲学を教える学校長を務めた女性だった。
彼女は、古代ギリシャの数学者アポロニウスが書いた「円錐曲線論」や「代数学の父」とディオファントス(ローマ帝国時代の数学者)の著作「算術」の解釈を残した。
ところが、当時のキリスト教は、異端や異教を認めず、彼女が神秘主義を退ける態度に敵意を持った。
キリスト教徒達は、ヒュパティアの研究と発言に激しい怒りをぶつけたのである。
そして415年、ヒュパティアはキリスト教の暴徒に殺害されてしまった。
こうして、最初の女性数学者は無残な最期を遂げる。
次に女性数学者が現れたのは、ヒュパティアの死後、およそ1,300年も経った18世初頭だった。
ヒュパティアに継ぐ女性数学者 エミリー・デュ・シャトレ
1706年、フランスの上流貴族の家に生まれたエミリー・デュ・シャトレは、父の方針で最も上級の教育を受け、12歳で5ヶ国語を話す天才ぶりだった。
彼女が数学にのめり込んだのは、結婚して子供を産んだ後である。
当時、政略結婚が中心だった貴族社会では、愛人を持つことは非難されなかった。
エミリーは、愛人との付き合いで、数学や物理学、自然科学への興味を深めたのである。
最初の愛人から、ニュートンの理論を勧められ、2番目の愛人からは幾何学を学んだ。
エミリーは3番目の愛人から高等数学を学んだ。その理由はニュートンが書いた「自然哲学の数学的諸原理」の翻訳をしたいと望んだからである。この本を翻訳するためには、もっと専門的な数学知識が彼女に必要だった。
その後、エミリーは4番目の愛人に、啓蒙主義(合理的近代的知識システムを作ろうとする運動)で有名だったヴォルテールを選んだ。
1738年にヴォルテールが著した『ニュートン哲学要綱』は、彼女の助けにより出版される。
晩年のエミリーは、ロレーヌ公(フランスのロレーヌ地方北東部、ルクセンブルクおよびドイツの一部を含む領地を持つ)でもあり、ポーランド・リトアニア共和国の国王だったスタニスワフ・レシチニスキから科学アカデミー入会を誘われ、ヴォルテールと共に参加した。
1749年、彼女はロレーヌの地でニュートンの「自然哲学の数学的諸原理」の翻訳と解釈を完成させて亡くなった。
初の女性数学教授となったマリア・ガエターナ・アニェージとは
1718年イタリア・ミラノに生を受けたマリア・ガエターナ・アニェージは、富裕な絹商人を父親に持ち、エリート教育を受けた。
彼女は13才で6ヶ国語に通じ、数学の才能を発揮したが、社交界で活躍するより修道院入りを望むようになる。
その後、マリア・ガエターナは父親と取決め、社交界に出ない代わりに、家の管理と家族20人の世話を引き受けた。彼女は家庭を守りながら、独学で自然哲学や数学を収めたのである。
マリア・ガエターナの数学における功績とは何だったのか?
次の2つがある。
1. 解析教程
2. アニェージ(アーネシ)の曲線
1.の「解析教程」は、1748年マリア・ガエターナが出版した本題でもあり、広範囲な数学分野を系統的に説明した最初の本だった。
数学を研究する専門家達は、この書物を熱烈に支持している。
フランス科学アカデミーからマリア・ガエターナに届いた手紙は、彼女を絶賛する内容だった。しかし、同アカデミーは彼女の参加を許可しなかった。
「解析教程」は最高の教科書として沢山の言語に翻訳され、オーストリアの女帝マリア・テレジアにも献上された。
マリア・テレジアはマリア・ガエターナに、功績を称える高価なダイヤモンドを贈った。
2. の「アニェージの曲線」は、マリア・ガエターナがこの曲線を見出し、方程式を考え出した。
別名「アニェージの魔女」と呼ばれるこの曲線は、直交座標における方程式である。
1750年、マリア・ガエターナの数学の功績が認められ、ローマ教皇ベネディクトゥス14世は、彼女をボローニャ大学の数学と自然哲学の教授に選出した。
ここに至り、ついに女性数学教授が誕生したのである。
終わりに
天才的な数学の才能を持っていても、時代背景が悪かったり、引き立ててくれる人物がいなければ世に認められることは難しかった。
ヒュパティアやエミリー・デュ・シャトレにも、彼女たちを評価し、引き立てる人物は多くいた。
しかしマリア・ガエターナ・アニェージが、初の女性数学教授となった最大の理由は、ローマ教皇ベネディクトゥス14世が彼女の登用を決めたことである。
権威を持つ教皇が、性別ではなく数学の才能で評価し、女性数学者の先例を作ったのである。
彼の決断は、後世に大きな影響を及ぼしたはずだ。
参考文献 : 数学史のなかの女性たち
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