飛鳥時代

【古代史上稀代の女傑】 飛鳥時代の中心人物・斉明天皇

激動の飛鳥時代に、2度も皇位についた女性天皇

斉明天皇(御歴代百廿一天皇御尊影)wiki c

画像 : 斉明天皇(御歴代百廿一天皇御尊影)wiki c

斉明天皇は、594年に第30代敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一王女として誕生。諱は寶女王(たからのひめみこ)、和風諡号は天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)という。630年に37歳で、第34代舒明天皇の皇后に立てられた。

その舒明天皇の間に、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んでいるが、中大兄皇子の誕生が626年(間人皇女・大海人皇子は誕生年不詳)とされるので、当時ではかなりの高齢出産だと考えられる。

641年の舒明崩御に際し、49歳で第35代皇極天皇として即位した。在位中には、小墾田宮遷都、飛鳥板葺宮造営、山背大兄王の滅亡、蘇我蝦夷・入鹿が滅んだ乙巳(いっし)の変が起きた。この時、皇極天皇は、弟の軽皇子(かるのおうじ)に譲位。第36代孝徳天皇である。孝徳天皇の死後、再び即位し斉明天皇となったが、この即位が、日本では初めての「重祚」(再び即位すること)であった。

斉明天皇としては、飛鳥京における大運河・大土木工事の実施。さらに、蝦夷征伐を行い、67歳の時、百済救援のために自ら軍を率いて出征、筑紫の朝倉宮で661年に崩御した。皇太子であった中大兄皇子は、斉明天皇崩御の後に朝鮮半島へ軍を送ったが、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫することになる。

斉明天皇の治世を振り返ると、蘇我宗本家の最盛期から没落、大化の改新事業の推進、そして朝鮮半島への軍事介入と、まさに動乱の飛鳥時代を生き抜いた天皇であることが分かる。

ただ、教科書などでは歴史を動かした中心人物は、蘇我蝦夷・入鹿、中大兄皇子、中臣鎌足らのように記される。

しかし、近年発掘調査が進む奈良県明日香村の遺跡と『日本書紀』の記述から、中心人物は斉明天皇であることが明らかである。

斉明天皇の行った宮都造営と土木事業の真相

酒船石遺跡の亀形石造物と湧水設備(撮影:高野晃彰)

画像 : 酒船石遺跡の亀形石造物と湧水設備(撮影:高野晃彰)

7世紀、日本の政治の中心地は奈良県明日香村だった。ここには、歴代の天皇が宮都を造営している。斉明天皇も、皇極時代に蘇我蝦夷に命じて飛鳥板葺宮、斉明時代に後飛鳥岡本宮を造営した。

こうした宮都は発掘調査により、同じ場所に重なるように存在していたことが判明している。後飛鳥岡本宮は、斉明天皇亡き後、天智天皇が近江大津宮に遷都する前に居所とし、壬申の乱に勝利した天武天皇も飛鳥浄御原宮遷都前に、ここで政務をとった。

そして、斉明天皇といえば飛鳥において大規模な造営および土木工事を行ったことが『日本書紀』に記されている。これを裏付けるかのように、石神遺跡の建物群、水落遺跡の水時計遺構、飛鳥京苑池などの遺跡が発掘されている。

石神遺跡の現地説明板(撮影:高野晃彰)

画像 : 石神遺跡の現地説明板(撮影:高野晃彰)

中でも「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」と『日本書紀』で揶揄された大運河を掘削したことは有名である。この運河は、香具山の西から石上山(奈良県天理市)まで約12kmにおよび、3万人の工夫をして完成した。さらに、200隻の舟を曳かせて、石材を飛鳥に運んだという。

こうして運んだ石材は、後飛鳥岡本宮に隣接する東側の丘、飛鳥の名所として有名な酒船石(さかふねいし)遺跡にあった両槻宮造営に使用された。両槻宮の丘は、版築で固められた3mほどの人口の丘で、明日香産の花崗岩を地覆石状に並べて基礎とし、その上に石上山から運んだ切石を積み上げて石垣とした。この工事に7万人を費やしたとの説もある。

酒船石遺跡の一般見学会  wiki c

画像 : 酒船石遺跡の一般見学会  wiki c

この両槻宮造営は、高句麗・百済・新羅の争いが激化した当時の朝鮮半島情勢により行われたと考えられる。両槻宮は、斉明天皇が国政を行う後飛鳥岡本宮に対して、その詰めの城ともいうべき王宮であった。

斉明天皇を支える中大兄皇子、中臣鎌足らは、明確に百済救済を掲げていた。斉明天皇としては、日本が百済救済に失敗し、新羅に敗れた時のことを考え、堅固な城壁を有する宮を新たに造営したのだろう。

斉明天皇の崩御とその真陵とされる牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(撮影:高野晃彰)

画像 : 牽牛子塚古墳(撮影:高野晃彰)

660年、ついに百済が唐・新羅により滅ぼされた。斉明天皇は、百済救援のため、難波宮で武器と船舶を整えた。そして高齢をおして自ら中大兄皇子・大海人皇子ら日本軍の先頭に立ち、瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。飛鳥朝を動かす女傑として、面目躍如たる実行力である。しかし、遠征軍を発する前の661年、当地にて67年の波乱の生涯を閉じた。

斉明天皇の亡骸は、筑紫から飛鳥に戻り、殯(もがり)の後、667年に埋葬された。『日本書紀』には、娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬し、陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったと記される。

牽牛子塚古墳現地模型(撮影:高野晃彰)

画像 : 牽牛子塚古墳現地模型(撮影:高野晃彰)

宮内庁は、奈良県高取町の「車木ケンノウ古墳」を斉明天皇陵とするが、現在では、奈良県明日香村大字越の「牽牛子塚古墳」が真陵とされる。同古墳は、明日香村教育委員会の手で「牽牛子塚古墳等整備事業」として、約5年にわたる復元作業が終了し、2022年3月6日から一般公開が始まった。

一般社団法人 飛鳥観光協会は「飛鳥時代、史上初めて2度天皇となった皇極・斉明女帝。彼女が娘と孫娘と一緒に眠る古墳が、牽牛子塚古墳・越塚御門古墳です。」と公式サイトに明記する。

「牽牛子塚古墳」が斉明天皇の真陵とされる決め手は墳丘が八角形墳であること、2つの墓室をもつ巨石を加工した横口式石槨であること、棺が最高級の夾紵棺(きょうちょかん)であることなどの他、墳丘の一角から横口式石槨を埋葬施設とする方墳「越塚御門古墳」が発見され、これが孫の大田皇女の墳墓と考えられることによる。

越塚御門古墳(撮影:高野晃彰)

画像 : 越塚御門古墳(撮影:高野晃彰)

斉明天皇は、飛鳥京造営にあたり様々な石造物を造ったことで知られるが、その墳墓もまた奇想天外な石の造形物であった。一見するとまるで白亜のピラミッドを思わせる「牽牛子塚古墳」。

これこそが、中央集権体制を敷き、統一国家に向かう日本を指揮した女傑の集大成であったのかもしれない。小高い丘の上に燦然と輝く、威厳に満ちた「牽牛子塚古墳」を見上げるとそう思えてならない。

※参考文献:
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』文春新書、2019年5月
佐藤信編『古代史講義 戦乱編』ちくま新書、2019年3月
小笠原好彦著『検証 奈良の古代遺跡』吉川弘文館、2019年8月

高野晃彰

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高野晃彰(たかのてるあき)
編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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