今回は、毛利元就の嫡男、第13代当主の毛利隆元(もうりたかもと)の死の真相について触れていきたい。
毛利隆元は父・元就より8年も前に亡くなっており(享年41)その死因には様々な説が存在する。
元就にとっても痛恨だったとされる隆元の早死だが、いったい何があったのだろうか。
毛利隆元の概要
まずは毛利隆元のプロフィールを簡単に紹介する。
人名:毛利 隆元
別名:少輔太郎
官位:備中守、従四位下、大膳大夫、贈・正三位
出身:安芸の多治比猿掛城
出生:1523年
没年:1563年8月22日
父親:毛利元就
母親:妙玖(吉川国経娘)
兄弟:女、隆元、五龍局(宍戸隆家室)、吉川元春、小早川隆景、女(上原元将室)、二宮就辰、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包
配偶者:尾崎局(大内義隆養女、内藤興盛娘)
側室:なし
子供:輝元、徳鶴丸、津和野局(吉見広頼室)
主な参戦:厳島の戦い、松山城の戦い等
関わりの深かった人物:毛利元就、吉川元春、小早川隆景
信長の野望 新生PK:統率80、武力69、知力78、政治87
信長の野望 新生PKでの列伝:
安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。
引用:毛利隆元【新生】 | 信長の野望 徹底攻略(https://nobunaga-kouryaku.com/shinsei/database/samurai/2009)
隆元は「暗愚だった」「頼りない嫡男だった」とされることもあるが、それは性格が温和だったせいである。
隆元は決して戦下手ではなく、何よりも政治能力の高さは傑出していた。
信長の野望の能力値も全体的に高水準となっており、コーエーも高く評価しているようだ。
毛利隆元の死の真相は?
前述したように元就が亡くなったのは1571年、隆元が亡くなったのは1563年であり、父親よりも8年も早く亡くなっている。
隆元の死因は、主に3つの説がある。
・敵方による毒殺(暗殺)説
・食中毒説
・何らかの急病説
通説とされるのが、永禄6年(1563年)8月3日の夜、毛利氏傘下の備後国人である和智誠春(わちまさはる)の元に招かれた時に、饗応の膳に出された鮎の食中毒だ。
現代でも、鮎を食べることでボツリヌス菌による食中毒になる可能性がある。
ボツリヌス食中毒は重症化すると呼吸麻痺により死亡するケースもあるという。
次は、毒殺(暗殺)説である。これは和智誠春が隆元を招いた時に、鮎で食中毒を起こしたのではなく毒殺で亡くなったとする説である。
実際に元就も毒殺を疑っており、隆元に随行した側近の赤川元保と、和智誠春を後に誅殺している。
しかし後に、赤川元保は「どんな謀があるか分からない和智誠春のもとに赴かれる必要はない」と隆元を心配していたことが分かり、元就は元保の一族を粛清したことを悔いたという。
和智誠春に関しては、毛利氏と敵対していた尼子氏に従属していた時期があり、尼子側から何らかの指示を受けていた可能性はある。
しかし、毒を盛ったのなら普通は時間を置かずして苦しむはずだ。
隆元が苦しみだしたのは祝宴が終わったその日の帰りの道中であり、亡くなったのは翌朝である。(遅効性の毒という可能性もあるが)
そして誠春が本当に裏切っているのなら、この毒殺事件後に尼子側に寝返ってもよかったはずだ。
しかし誠春は隆元が亡くなった後、約5年近くも自分が処刑されるギリギリまで毛利家に従っている。寝返ろうと思えばいくらでも機会はあったはずである。
誠春の嫡男・元郷は血判の起請文を元就に提出し「もし父・誠春が忠臣でなければ親子の義絶も辞さない」と誓いまで立てている。
そもそも本当に暗殺する気なら、このように真っ先に自分が疑われる手段をとるだろうか。
誠春は、元就から不信を抱かれつつも5年間毛利氏に従ったが、息子のように身の潔白を証明するためにジタバタ行動しなかったのは、誠春なりの意地があったのではないかと筆者は推測する。
また、隆元は死の前年の1562年、「父に病難があれば、自分がその身代りになる」という願文を厳島神社に奉じており、以前から何か持病持っていた可能性もある。
そう考えると隆元の死因は、通説の『食中毒説』か、『何らかの急病説』となるだろう。
最後に
毛利隆元は、父・元就から「武家に向かない」と厳しい評価をされた人物だったが、毛利家の財政基盤を整えていたのは間違いなく隆元だった。
弟の元春と隆景は、隆元の死後、兄がどれだけ毛利家を支えていたのかに気づき、敬服したという。
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