前回の記事「ポル・ポトの恐怖の政策「原始共産制」とは 〜貨幣禁止、恋愛禁止、眼鏡をかけてたら死刑」では、ポル・ポトが実施した「原始共産制」を見てきました。
ポル・ポト政権は、貨幣廃止や宗教禁止といった社会の根本的変革を断行します。国民を共同農場での労働に従事させ、個人の所有権や自由を完全に否定。家族の解体と恋愛・結婚の管理も行いました。
その一方で「知識人」を次々と処刑。眼鏡をしているだけで処刑の対象となりました。
さらに現実離れした農業政策の結果、飢餓と死者が激増。農業生産の崩壊と食料危機を招き、カンボジアを壊滅的な被害をもたらしたのです。
今回の記事では、ポル・ポト失脚後も続いたカンボジアの悲劇について見ていきたいと思います。
目次
毛沢東が実施した「文化大革命」の影響
ポル・ポトはかつて中国に滞在し、毛沢東による「文化大革命」の影響を強く受けました。
その後、カンボジアに戻りクメール・ルージュ(カンボジア共産党)を組織して政権を取ると、毛沢東路線を極限まで推し進めます。
しかし、中国の「大躍進政策」やソ連の農業集団化で見られたように、その政策は農業を破綻させる結果となりました。党内や国内で次々に「敵」を粛清する手法は、スターリンとよく似ていました。
共産主義国による政策の失敗はことごとく隠蔽され、その結果として大きな犠牲を払うことになります。
過去の歴史に学ばない愚かさを、ポル・ポト政権は世界に示すことになったのです。
カンボジア人が抱くベトナムへの不信感
歴史を振り返ると、カンボジアはベトナムの侵略を何度も受けてきました。
植民地時代、フランスがベトナム人を利用してカンボジアを間接支配する形式を取ったこともあり、ベトナムに対する強い不信感が醸成されていたのです。
加えてベトナム共産党がカンボジアを従属国のように扱い、誇り高いカンボジア人の気持ちを踏みにじってきた経緯もあります。
この歴史的背景をポル・ポトは反ベトナム感情として利用します。国内の政策失敗をベトナムによる陰謀であると印象づけ、攻撃を正当化しようとしたのです。
ベトナムのカンボジア侵攻とポル・ポト政権の崩壊
1978年12月、ポル・ポトに迫害され国外逃亡したカンボジアの軍人たちが、ベトナムに対して救援を要請しました。これを受けてベトナムは10万の兵を派遣し、カンボジアに侵攻します。
侵攻軍の首班はヘン・サムリンでしたが、実際に動いたのは数百人の兵士に過ぎませんでした。抵抗力のないポル・ポト軍は2週間で崩壊し、3年8ヶ月続いた政権は終焉を迎えました。
ベトナム軍の侵攻により、それまで密室状態だったカンボジアの惨状が世界に知られることになります。
ベトナム支援の下、ヘン・サムリン政権による国家再建が開始されますが、壊滅状態の行政と経済の立て直しを強いられることになったのです。
ベトナムによるカンボジア侵攻をめぐる是非
ベトナムのカンボジア侵攻は当初、世界的に非難されました。侵略戦争を正当化することに繋がるからです。
しかし他方で、この侵攻によってポル・ポト政権が崩壊し、大量殺戮が食い止められたという側面もあります。つまり、ある意味でベトナムは「大量虐殺の阻止に貢献した」という評価もできるのです。
このようなジレンマを抱えるカンボジア侵攻は、のちに「人道的介入」という概念を打ち立てる契機にもなり、旧ユーゴスラビアの内戦(1999年)にNATO軍が介入する理由にもなりました。
正義のために武力行使を容認するか、国家主権を最優先するのか。今なお難しい判断を迫られる論点であると言えるでしょう。
カンボジア内戦の再開とポル・ポトのゲリラ戦
ベトナムのカンボジア侵攻によって失脚したポル・ポトでしたが、まもなく北部国境地帯を拠点にゲリラ活動を再開します。
シアヌークを名目上のリーダーに据えた「民主カンボジア連合政府」を樹立し、中国・タイの支援を取り付けました。中国はベトナムの封じ込めが目的です。またタイからすると、ベトナムの影響力拡大を警戒したことが支援の目的でした。
ポル・ポトはタイ国内の難民キャンプで軍を再構築し、中国からは武器供与を受け、本格的な内戦体制を整えます。
再びカンボジアで民族同士の争いが発生することになったのです。
ベトナム軍のカンボジア撤退
1989年9月、11年間に及ぶカンボジア駐留を終えてベトナム軍が撤退しました。
ソ連からの支援が縮小したベトナムにとって、自国の経済再建が最優先事項であり、カンボジアでの駐留継続は大きな経済的負担となっていたためです。
ポル・ポトとの戦いによって、5万人ものベトナム兵が犠牲になるなど、カンボジア介入の経済的・人的コストは計り知れないもになりました。
国連主導によるカンボジア再建と日本のPKO初参加
1989年のベトナム軍撤退を機に、国連が主導するカンボジアの和平と国家再建が進められました。
国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による直接統治が決定し、93年の総選挙を経て新政権が発足。シアヌークを国王とする立憲君主制が導入されました。
日本も自衛隊派遣など初のPKOを実施・支援しましたが、残念ながら日本人の職員2名が殺害される事態も発生してしまいます。
国際協力への在り方を改めて問い直す契機ともなりました。
ポル・ポトの最期
ポル・ポトは国連主導によるカンボジア和平プロセスに最後まで抵抗。しかし1997年あたりから、クメール・ルージュ内で実権を失っていきます。
そして翌年(1998年)の4月15日、心不全によって亡くなりました。73歳でした。
このあとカンボジアとベトナムの要請によって、国連が支援する特別法廷が設置され、クメール・ルージュの元指導者4人が裁かれました。
2006年と2010年の判決では、大量殺戮の罪などによって、元指導者たちに終身刑が言い渡されています。
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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