クラシック音楽やピアノをかじったことがあるなら、フレデリック・ショパンの名を知らない者はいないだろう。
数多くの美しき名曲を生み出しながらも病弱だった彼の人生の後半で、生活と作曲活動を支えていた恋人についてはご存じだろうか。
彼女の名はオーロール・デュパン、またの名をジョルジュ・サンドという。男装して社交界に出入りし、自らの恋愛遍歴と思想が反映された著作を発表して、当時世間を賑わせた女流作家だ。
自由と平等と芸術を愛し、数多の紳士と愛や友情を交わしたジョルジュ・サンドの生涯について詳しく解説していこう。
目次
貴族の父と庶民の母の間に生まれた娘
ジョルジュ・サンドという名は彼女のペンネームであり、本名はアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパンという。またはデュドヴァン男爵夫人とも呼ばれる。
サンドは1804年、パリにて貴族軍人である父と、一般庶民の母との間に生まれた。サンドの両親は今でいう授かり婚という形で結婚した夫婦だった。
父方の曽祖父はオーストリア継承戦争で名声を挙げ、フランス大元帥にも叙された軍人モーリス・ド・サックスというやんごとなき貴族の家系であったが、サンドの父が上司の情婦だったサンドの母に一目惚れしたことによって、2人は結ばれたのだ。
しかしサンドの父は彼女が4歳の時に事故により急死してしまい、サンドは父方の祖母であるマリー=オーロール・ド・サックスの元に身を寄せることになる。サンドの祖母と母は終始折り合いが悪く、サンドの法的後見人の権利は金銭と引き換えに祖母が持つこととなった。
祖母との田舎暮らしの中で豊かな感性を養う
サンドの曽祖父モーリスは、ザクセン選帝侯・ポーランド王アウグスト2世と年上の愛人の恋愛関係によって生まれた庶子であり、サンドの祖母も元々は曽祖父と女優の間に生まれた私生児だった。
当時の時流に逆らい、家柄による結婚よりも奔放な自由恋愛に情熱を傾けたサンドの恋愛観は、もしかすると血筋の影響もあったのかもしれない。しかしサンドの祖母は、どこの馬の骨ともわからない息子の嫁を認めようとはしなかった。
息子の嫁とは険悪な仲だったサンドの祖母だったが、大事な1人息子の忘れ形見である孫娘のサンドには豊かな教育と環境を与えた。
孤独な少女の心を慰めたのは、祖母の館があるフランス中部ノアンでの美しき田舎暮らしと、著名な自由思想家でもあった祖母が所有する多くの蔵書だった。
やがて祖母が病死してしまい、その翌年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚したサンドは一男一女の母となる。しかし昔ながらの男尊女卑的な価値観を持つ夫とは、とにかくそりが合わなかった。
結婚から9年経った27歳の時、サンドは退屈で従属的な結婚生活から解き放たれるために、生まれ故郷のパリへと旅立ったのだ。
芸術の都パリで文壇デビューを果たす
夫であるカジミールとの夫婦関係は既に破綻していたが、カトリックの規則で離婚することはできず、サンドはパリとノアンでの二重生活を送ることになる。
パリでの生活費を節約するために、サンドは男性用の服を着て社交界に出入りするようになった。窮屈で動きづらい女物のドレスとは違い、男装はサンドの身も心も自由にした。
1831年、当時の恋人ジュール・サンドーとの合作で小説『薔薇色の雲』を発表、その翌年にはジョルジュ・サンドという男性名をペンネームとして『アンディアナ』を発表し、鮮烈な文壇デビューを果たすが、著者が女性であることが発覚した途端に猛烈な批判を受けたという。
しかし男性優位社会からの解放を夢見るサンドは、批判に負けず次々と著作を発表した。芸術に造詣が深くみずみずしい感性を持つ新進気鋭の人気作家を、パリに集う芸術家たちが放っておくわけがなかった。
男物の服を着て葉巻をくゆらせながら、サンドは多くの芸術家や名士と肉体関係を含む親交を交わした。
サンドのかつての恋人は詩人のミュッセ、作家のメリメ、画家のドラクロワなど錚々たる面子だ。当時アイドル的な人気があったピアニスト・フランツ・リストは、サンドと恋仲と噂されるほど仲の良い親友だった。
ショパンとの出会い
サンドはリストの愛人のサロンに招待された際に、初めてショパンと出会う。
2人が出会った時、ショパンは26歳でサンドは6歳年上の32歳だった。ショパンにとってサンドの第一印象は決して良いものではなく、男の格好をしながら恋の噂が絶えないサンドについて、「彼女が本当に女性なのか疑ってしまう」と陰口を言ったという。
一方のサンドは、リストからショパンの才能について聞かされていたこともあってか、ショパンが奏でる曲の美しさと優雅な身のこなしや繊細な雰囲気に魅了され、すぐに心を奪われた。
とはいえ、その当時ショパンには結婚を約束した女性がいた。その婚約は後に年齢差やショパンの病弱さを理由に破棄されてしまうのだが、2人が蜜月の関係となるのは出会ってから2年の月日が経った頃だった。
1838年の夏、ショパンへの想いを募らせたサンドの情熱に、婚約破棄で傷付いた純情なショパンがほだされるような形で2人の恋は始まったのだ。
マヨルカ島への逃避行
ショパンと親密な関係になった頃、サンドには別の恋人がいた。夫とはとうに法的な別居関係となっており、事実上の離婚状態だったため2人の関係は不倫ではなかったが、恋人の嫉妬や肺を患っているショパンの体調を危惧したサンドは、ショパンをマヨルカ島へと誘い出す。
2人は長旅を経てマヨルカ島で落ち合い、サンドとショパン、そしてサンドの子どもたちとの生活が始まった。
しかし普段は温暖なはずのマヨルカ島は、2人の生活が始まった年の冬に運悪く悪天候が続き、寒さと湿気でショパンの病状はむしろ悪化してしまう。その結果、わずか3ヶ月ほどでマヨルカ島から去らざるを得なくなった。
マヨルカ島を出たサンドたちはバルセロナからマルセイユを経由して、サンドの別荘があるノアンで夏を過ごし、その後はパリとノアンを季節ごとに行き来する生活を送るようになる。
ショパンとの別れ
サンドはショパンとの生活を経済的にだけでなく健康面でも支え続けた。ショパンは病に苦しみながらも、サンドと過ごす日々の中で数多くの名曲を生み出した。ショパンの人生において、いつしかサンドはなくてはならない存在となっていた。
しかし元々性に奔放で現代でいう肉食系女子であるサンドを、草食系男子の典型ともいえるようなショパンが男として満足させることはできなかったようで、彼女らが共に過ごした約10年間の内、男女の情熱があったのはほんの短い期間であったという。
それでもサンドはショパンの音楽家としての才能を尊敬し、彼に対して母のような献身的な愛情を注ぎ続けた。だがその愛情が、サンドと子供たち、そしてショパンの間に不和をもたらしてしまったのだ。
サンドの息子モーリスは、母を奪っておきながら父親面するショパンを嫌い、娘は逆にショパンにすり寄った。
その後、サンドの娘の婚約者との問題にショパンが介入したことや、サンドが書いた小説の内容がショパンのプライドを傷つけたこともあって、1847年に2人の関係はサンドから幕を降ろす形で終焉を迎えた。
サンドとの別れから約2年後の秋、ショパンは39歳の若さで友人や姉に見守られながら息を引き取る。
サンドはショパンの見舞いどころか葬式に来ることすらなかったが、ショパンの手帖には最期までサンドの髪の毛を1房切り取ったものがはさまれていたという。
ショパンとの別離後
ショパンと別れてからも、サンドの情熱的かつ精力的な活動は続いた。
1840年代には民主主義・社会主義の思想に傾倒し、カール・マルクスなど著名な活動家たちと親交を持ち、1848年に起きたフランス二月革命にも参加した。
革命後はノアンに定住して執筆活動に専念するとともに、女性の権利拡張運動を主導し、年齢的に恋を重ねることはなくなったが、『レ・ミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユーゴーやテオフィル・ゴーティエなど、多くの文学者と友情を築いた。
1876年6月8日、サンドは71歳で腸閉塞によって、ノアンの館にて死去した。
ジョルジュ・サンドの作品たちに表れる人物像
ショパンが生み出した名曲たちの多くはサンドの支えなしには生まれなかったと言われているが、サンド自身もまた優れた文筆家であり、彼女の著書には彼女の思想や恋愛観が美しい情景と共にみずみずしく描かれている。
サンドの作品のおもしろい所は、彼女がその時々で付き合っていた男性の影響をわかりやすく受けていることだ。
サンドは数多くの男性と恋をしたが、相手は誰でも良かったわけではなく、恋人たちの1人1人を尊敬し、彼らの思想や芸術性を素直に受け入れていたことが伺える。
さらに相手のことを尊敬はするけれど隷属はしない、恋人から学ぶことはあっても相手の好みに染まろうとはしないという、男女の平等を追求するスタイルはどの恋愛においても一貫していた。
日本ではショパンの存在ありきで語られることが多いジョルジュ・サンドだが、彼女は誰のものでもなかった。自分自身の人生を情熱的に生きた、ぶれない強さを持つ女性だったのだ。
参考文献
ひのまどか『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 ショパン』
持田明子『ジョルジュ・サンド 1804‐76―自由、愛、そして自然』
池田孝江『ジョルジュ・サンドはなぜ男装をしたか』
坂本千代/加藤由紀『ジョルジュ・サンドと四人の音楽家: リスト、ベルリオーズ、マイヤベーア、ショパン』
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