飛鳥時代以降の日本は、国内制度の整備と対外政策において、中国(唐)の強い影響下にありました。
壬申の乱のあとに本格化した、中央集権体制の構築や中国文化の受容は、唐への対抗意識が背景にあると考えられています。当時の日本は国家形成の途上にあり、先進国である唐からの承認を得ることが至上命題でした。
今回の記事では、天皇号の制定や都市建設、法制度の整備など、日本の国家建設における各段階で、唐の存在がどのように影響を与えたのかを見ていきます。
飛鳥時代の国作り
壬申の乱に勝利した天武天皇は、中国の先進的な制度を取り入れつつ、中央集権的な国家体制の構築を始めました。具体的には唐の制度や文化を積極的に取り入れる「鹿鳴館政策」を推し進めました。
鹿鳴館とは明治時代に作られた西洋風建物であり、当時の日本がヨーロッパの文明を積極的に取り入れたことを象徴する建物です。飛鳥時代の日本も明治時代のように、唐から積極的に文明を学ぼうとしました。
この鹿鳴館政策によって「日本」という国号や、「天皇」という号が使われるようになり、国家としての統一性が一気に高まっていったのです。
日本という国号は遣隋使の手紙(607年)にある「日出処の天子」という表現に由来し、702年の遣唐使で初めて正式に使用されます。
唐と新羅の戦争も追い風となり、日本は中央集権国家への基盤作りをするため、必要な時間を稼ぐことができました。
中国の天皇号を模倣した日本の天皇
古代の日本において、これまでの支配者は「王」や「大王」と呼ばれてきました。しかし「天皇」という呼称は、実際には750年以降に遡って付けられたもので、当時の呼称ではありませんでした。
「大王」では単なる王に過ぎず「天子(皇帝)」と名乗れば、中国の皇帝を怒らせてしまうため、660年に中国の武則天が制定した「天皇」の呼称が参考にされました。
武則天はとても有能で野心もあったため、夫の高宗に並ぶ地位を要求したのです。武則天の政治は、道教の最高神からとった「天皇」「天后」の称号を制定したため、「二聖政治」とも呼ばれています。
日本も武則天に習い、独自の天皇号を制定したと考えられています。中国文化を積極的に取り入れた、飛鳥時代の政策とも合致する選択であったと言えるでしょう。
武則天の周を意識した藤原京
690年、藤原京(当時は新益京などと呼称)の建設が始まります。
これまで天皇が代わるたびに新しい宮殿が建てられてきたのに対し、今後は場所を移さない恒久的な都市を目指したのです。
設計は中国の長安城をモデルとした「条坊制」が取り入れられました。
条坊制とは、中国の古代都市で利用された都市設計の手法です。まず格子状の大通り(条)を設け、その通りに囲まれた区画(坊)に官衙や官人・貴族の邸宅を配置します。区画内には細かな道路を縦横に通します。
碁盤の目のような大通りで基本的な区割りをし、その中を自由に細分化していく方法です。都市全体の規則性と個々の区画の自由度を両立できるのが特徴です。
藤原京は、日本で初めて本格的な恒久的首都を目指した設計と言えるでしょう。
当時の中国では683年に唐の高宗が死去し、690年に武則天が自ら皇帝として「周」を建国しました。
藤原京は、古代中国の理想都市を記した『周礼』に基づいて設計されました。『周礼』とは、孔子が最も理想的だと考えた周の制度を示した書物です。この書物の中に大きな都市の中心に宮殿を置くことが描かれています。
日本がなぜ『周礼』を参考にしたかと言えば、当時の中国では女性初の皇帝となった武則天が周を理想の王朝として、その『周礼』を重視していたことが影響しています。
日本も武則天に従うように『周礼』と仏教を利用して、都市建設の正当性を主張したのです。
唐への媚びからくる藤原京建設
当時の日本には、武則天の権勢や仏教振興、また『周礼』重視など、中国の情報が頻繁に入ってきていました。
「白村江の戦い」における敗北の記憶も新しく、日中関係は今の日米関係以上に大きな影響力を持っていました。
この状況下において、日本は武則天への配慮から『周礼』に基づいて藤原京を建設し、国立寺院も多数建立することで対応しました。
まさにアメリカの顔色を常にうかがう、現代日本のように見えます。当時の日本は必死に中国に対して媚を売っていたのです。
藤原京の衛生問題と平城京遷都
しかし、藤原京はわずか16年で使用が停止されます。
南高北低の地形が関係して汚水や飛鳥川の氾濫水が宮殿に流れ込むなど、衛生面で欠陥があったことが平城京遷都の理由の一つとなりました。
710年に建設された平城京は、遣唐使が見聞した長安城の形式を模倣しており、天皇が住む宮殿を城の北辺に置く点が共通しています。
平城京の「平城」という名称は、唐の先祖に当たる北魏の都市名にあやかったものです。
北魏は拓跋氏が建国した国で、唐もその子孫にあたります。そのため平城京の名前には、唐に対する敬意や理解を示す意図が含まれていたと考えられています。
天皇の権威と国家としての威信
都市の建設は、天皇の権威と威信を示す重要な手段でした。日本は「天皇」という称号と「日本」という国号を確立し、それに伴い首都を建設します。
701年には大宝律令を制定し、法律体系を整備しました。
文化面においても唐の影響を強く受け、衣服では体に密着する胡服を採用し、家具には机や椅子を取り入れます。しかし平安時代に入ると、唐の影響が薄れ、湿気の多い日本の気候に合わないとされ、よりゆったりとした着物(国風文化)へと移行しました。
都市の存在は、唐や他国への対外的なメッセージとしても機能していました。天皇という尊大な称号を持ち、立派な都に住んでいることは、使節が訪れた際に国の威信を示すため重要でした。それに加えて遣唐使を送ることがより容易になり、日本の外交政策に安定をもたらすことができます。
また『日本書紀』のような国史の編纂も、唐からの視線を意識した一大プロジェクトでした。文化面の強化は、国際的な立場を強化し、日本の独自性と発展を対外的に示す手段にもなります。
この時期の日本は、国内の政治・文化の発展に力を注ぎながら、また同時に外交面での地位向上に努めていたのです。
参考文献:出口治明『0から学ぶ「日本史」講義 中世篇』文藝春秋
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