NHK『ブギウギ』で、富田望生さん演じる小夜ちゃん。突然、スズ子の付き人をやめると言い出した裏には、アメリカ兵・サムとの関わりがありそうです。
史実に小夜ちゃんの実在モデルは存在しませんが、当時、米兵と結婚しアメリカへ渡った「戦争花嫁」と呼ばれる女性たちがいました。
今回は、第二次世界戦争後、日本からアメリカに渡った戦争花嫁について解説します。
戦争花嫁とは?
戦争花嫁とは、戦時中に外国人兵士と結婚する現地女性を意味する言葉であり、もともとアメリカ人の軍人と結婚した女性が、米国で妻として暮らせるようにするための法律『戦争花嫁法』に由来しています。
日本人女性の場合は、第二次世界大戦後、進駐軍として日本に駐留していた兵士と結婚し、アメリカやカナダなどへ渡った女性たちが「戦争花嫁」と呼ばれました。
英会話本とチョコレート、魅力的だったアメリカ兵
焼け残った建物が進駐軍によって接収され、あちこちに基地が作られるようになると、地名や通り名は英語表記に変わり、ラジオからは陽気なジャズが流れ、一気にアメリカ文化の波が押し寄せました。
敗戦直後、連合軍兵士が日本を占領に来るという不安や恐怖に人々は怯えていましたが、紳士的でフレンドリーな米兵に、当初警戒していた人々も心を開いていきました。
まず子どもたちが、アメリカ兵の持ち込んだ大量のチョコレートやキャンディの虜になり、「ギブミーチョコレート」と言って、兵士の周りを取り囲みました。
大量の菓子をばらまくのは、占領地の人々を手なずけるための進駐軍の懐柔作戦でしたが、戦時中ひもじい思いをしていた子どもたちにとって、甘いお菓子や食パンの切れ端であっても食べ物をくれる米兵は、親切でやさしい人たちだったのです。
また、敗戦の翌月に『日米会話手帳』が発売されています。この英会話教本は、1年間で360万部を売り上げ、戦後初のベストセラーとなりました。
「鬼畜米英」と呼ばれたアメリカを敵視する人々は消えつつあり、特に若い女性にとって、戦勝国の富と権力を持った米兵は、とても魅力的に映ったようです。
どんな女性が戦争花嫁となったのか
戦争花嫁は、女学校や大学を卒業し一般企業で働いていた女性や進駐軍の施設で働いていた女性、ダンスホールで働く踊り子など様々でした。
結婚のなれそめも、仕事を通して知り合い恋に落ちたケースや英語の家庭教師と生徒の関係から結婚へと発展したケース。ナンパされたのがきっかけといったケースも多かったようです。
ある女性は、横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉学園)から、終戦後、聖心女子学院英語専攻科に入学。学内での会話は全て英語でした。卒業後、父親が広島県の江田島米軍基地内で始めた写真店の手伝いをいていたとき、陸軍の米兵と知り合い結婚しました。
戦前アメリカに渡ったことのある彼女の父親は、日本よりもアメリカには将来性があると確信しており、娘も英語が堪能だったため、国際結婚に全く反対しなかったそうです。
しかし、戦争花嫁の中には彼女のように家族の理解を得られた人ばかりではなく、家族や親族の反対にあって縁を切られ、二度と日本に帰ることを許されなかった人も大勢いました。
日本で蔑視された戦争花嫁
敗戦後の街には、夫を失った戦争未亡人や戦争孤児、ホームレス、仕事を失った傷痍軍人など貧民があふれていました。
貧しさから進駐軍相手の水商売をしたり、体を売ったりして生計を立てる女性も多く、女性がアメリカ兵と連れ立って歩いているだけで、軽蔑されるような世の中でした。
戦争花嫁は、「敵国の軍人と結婚した人」や「夜の商売で知り合って結婚した人」などというレッテルを貼られ、日本国内で差別視される存在となっていました。
新天地アメリカで強くたくましく生きた女性たち
終戦から10年の間に、約4万5000人の戦争花嫁が海を渡りました。
ある女性の回想によると、アメリカまでは14日間の船旅で、船には350人くらいの戦争花嫁が乗っており、夫が同行しているのは3人ほどだったそうです。同行した夫とは部屋は別で、船内で会うことは禁じられていました。
同行組以外は、夫である米兵が先に帰国し、あとから「呼び寄せ」として一人でアメリカに向かう女性たちでした。
彼女たちは船の到着地であるシアトルに着いても、言葉も理解できず、これからどうやって夫のもとに行ったらいいのかも分からず、途方にくれる人も多かったそうで、夫と無事に会えなかった方もいるのではと女性は語っています。
また戦争花嫁たちは、アメリカで思いもよらない事態や現実に適応していかなければなりませんでした。
アメリカに到着した彼女たちは、日本名を捨て、アメリカ人の名前をつけることを強要されました。遠縁の女性の名前や昔のガールフレンドの名前をつけられた女性もいたそうです。
豊かな国というイメージを抱いて渡米したにもかかわらず、結婚した相手が貧しい身の上だったと知って愕然とするということもありました。
結婚相手は田舎の小さな町の出身者が多く、嫁ぎ先は養鶏場や農場で、彼女たちは家族を支えるために死にもの狂いで働きました。
さらに、戦争花嫁を悩ませたのは、米国社会でのさまざまな差別や偏見でした。彼女たちは、日本でもアメリカでも差別を受けたのです。
しかし、戦争花嫁は、それまでの生き方とは違う新しい人生を手に入れるために、自分の前に転がってきたチャンスを逃すまいと、しゃにむに進んで取りに行ったたくましい女性たちです。
新しい世界で生きていくという決断を自分で下し、異国の地へ単身乗り込んだ彼女たちは、言葉や文化の違いを乗り越え、差別や偏見に負けずにアメリカという地に立派に根を張っていったのでした。
幼いころに父と別れ奉公に出されたという小夜ちゃんは、おそらく当時の女性像の一つなのでしょう。苦労を重ねてきた小夜ちゃんに、幸せが訪れることを願うばかりです。
参考文献
・井上寿一『終戦後史 1945-1955』.講談社
・『シアトルの生活情報誌 SoySource, War Bride〜「戦争花嫁」と呼ばれて〜』
『戦争花嫁法』の内容・内実をもう少し調べてから記述してください。
「戦争花嫁法とは“girls of their own race”と結婚することを許可」しただけ。
次世代が語る日本人「戦争花嫁」移民 土屋智子 著 より引用