鎌倉時代、幕府の第2代執権として武士の世を切り拓いた北条義時(江馬小四郎)。
その子孫は鎌倉幕府の滅亡とともに絶えた訳ではなく、各地でしたたかに命脈をつないだのでした。
今回は戦国時代に活躍した遠江の武将・江馬時成(えま ときなり)を紹介したいと思います。
果たして彼は、どのような生涯をたどったのでしょうか。
江馬時成のプロフィール
家伝に、襄祖は江馬小四郎義時が次男遠江守朝時がのちなりといふ。
※『寛政重修諸家譜』より
【意訳】江馬家の言い伝えによると、祖先は義時の次男・北条朝時(ともとき。遠江守)であり、江馬家はその末裔だと言う。
あくまで言い伝えなので、裏づけはありません。
【江馬家・略系図】
……江馬義時(北条義時)―北条朝時……(中略。詳細不明)……江馬時成……
江馬時成は生年不詳、嫡男の江馬一成(かずなり)が永禄4年(1561年)に生まれていることから、天文15年(1546年)以前の誕生と考えるのが自然でしょう。
通称は彌三(やぞう)、官途名に加賀守(かがのかみ)を称しました。
この通称は屋号のように受け継がれ、嫡男の一成も彌三を称します。
ちなみに加賀守と言えば国司ですが、これは朝廷から正式に任じられたものではなく、勝手に自称している(主君から自称を許された)ものです。
戦国時代になると国司も有名無実化しており、あちこちで「加賀守」が誕生しました。いちいち各家で調整なんてしなかったでしょうし……。
主君と共に、松平元康(徳川家康)へ内通する
話を時成に戻しますと、彼は今川家臣の飯尾致実(いのお むねざね。豊前守、飯尾連龍)に仕えていました。
致実は遠江の引間城(のち浜松城)を治めており、時成もその近郷にいたと思われます。
永禄7年(1564年)に 今川氏真が三河国吉田へ遠征した際、時成は致実と共に従軍しました。
この時、時成は致実に対して松平元康(のち徳川家康)へ寝返るよう進言します。
「今川殿は先がのうございます。ここは松平殿へ与した方が……」
「うむ、左様にいたそう」
かくして致実は独断で引間城へ引き上げてしまいました。
主力が戦線離脱してしまったことに驚いた氏真は狼狽し、駿河へ兵を退きます。
「おのれ豊前(致実)め、裏切りおったか!」
年が明けて永禄8年(1565年)、氏真は飯尾長門守(ながとのかみ。某)に命じて引間城を攻めさせました。
「松平殿へ援軍を求めよ!」
駆けつけたのは本多信俊(百助)・渡辺守綱(半蔵)・中根利重(喜蔵)ら精鋭揃い。これに力を得た致実らは城から出撃。小笠原安元(新九郎)の家臣・小野田彦右衛門が槍を奮って飯尾長門守を討ち取る武勲を立てます。
かくして今川の軍勢を撃退した致実たち。しかしその年の12月20日、致実が氏真の謀略によって暗殺されてしまいました。
従弟と争論の末に殺される
「加賀殿、いかがしたものか」
「かくなる上は、松平殿へ従うよりあるまい」
時成は従弟の江馬泰顕(やすあき。安芸守)と共に元康へ臣従します。
「これで当面はしのげようが……」
果たして永禄11年(1568年)12月、氏真が再び攻めて来ました。
時成は家康へ援軍を要請。駆けつけた本多信俊・渡辺守綱・中根利重らとともに抗戦。今川方を大いに悩ませます。
氏真「このままでは埒が開かぬ。何か方策はないか」
「安芸守を調略してはいかがでしょうか」
さっそく氏真は泰顕を調略。泰顕は時成に今川への帰順を説きました。
「徳川についたとて先はない。今川殿がお赦し下さるのだから、この機を逃す手はあるまい」
時成は不承知でしたが、氏真を誘殺するために承知の旨を告げます。
一方で家康に対してこのことを通報。このまま家康につくか、氏真に帰順するかで争論となり、時成は泰顕に殺されてしまいました。
この時に小野田彦右衛門は即座に槍をとって泰顕を殺し、残兵を率いて家康に帰順したということです。
終わりに
江馬氏系図
時成(彌三)-一成(彌三)-秀次(彌三)-成次(志摩之助)-雅次(平左衛門)-次章(平左衛門)=次興(平左衛門。次章の弟)=季寛(平左衛門)-応成(まさなり。寅之丞)※『寛政重修諸家譜』より。
※家紋は三鱗(みつうろこ)、花菱(はなびし)、三本傘(さんぼんがさ)。
かくして非業の死を遂げた時成は、遠江赤地にある高福寺に葬られました。その法名を清室と言います。
血で血を洗う戦国乱世にあって、生き残るためには主君を変えることも厭わなかった武士たち。その決断は常にリスクと背中合わせであり、時成もまた苦しい選択を迫られました。
時成の子孫は後世まで続き、祖先の誇りを伝えています。
※参考文献:
- 戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年1月
- 『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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