皆さんは廃墟に対して、どのようなイメージを持っているだろうか。
廃墟を目の当たりにして抱く感情は、不気味さや恐怖感、郷愁や哀愁、滅びの美しさなど、人によって様々だろう。
だが、視点を変えてみると、廃墟はその建物が建つ土地や国の歴史や文化を知る上で、教科書や文献よりも一段上の説得力を持つ存在となる。
幕末から明治にかけて西洋化と技術革新が進み、戦後から急速な経済発展を遂げ、その後バブル崩壊を迎えた日本には、日本近代史の栄枯盛衰を体現する多くの廃墟が、今も取り残されているのだ。
今回は、日本各地に残る数多くの美しい廃墟や遺構の中から、選りすぐりの5件を紹介しよう。
目次
日本初の洋式競馬場遺構「旧横浜競馬場一等馬見所」(神奈川県横浜市)
旧横浜競馬場一等馬見所は、横浜市中区にある根岸森林公園内に現存する廃墟だ。
2009年に近代化産業遺産に認定されたものの、建物の修復などはほとんど行われておらず、1929年に建築された当時の姿がほぼそのままの形で残されている。
旧横浜競馬場は「根岸競馬場」の名でも知られた、1866年(慶応2年)に開設された日本初の常設の洋式競馬場だ。その開設には、薩英戦争の原因の1つとなった「生麦事件」が大きく関わっている。
幕末当時、外国人居留地が設けられた横浜では、居留外国人たちのレクリエーションとして乗馬や競馬が愛好されていた。
根岸競馬場が開設される以前にも、横浜の各地で仮設の競馬場が開設されていたが、居留外国人が増えるにつれて仮設競馬場は住宅地に転用され、常設競馬場の開設を求める声が高まり、外交問題となっていた。
そんな世相の中で1862年、島津久光の大名行列を馬に乗りながら遮ったイギリス人4名が、薩摩藩士に殺傷される「生麦事件」が起こってしまう。
事件発生後、幕府とイギリス含む諸外国間で交渉が行われ、「横浜居留地覚書」が締結された。
この条約には生麦事件の賠償の一環として「幕府が費用を負担して常設競馬場を建設し、運営を居留外国人に委託する旨」が定められていた。
幕府は改正交渉を続けたものの、同じく横浜の関内で起きた「豚屋火事」をきっかけに計画が一気に進展し、根岸競馬場が開設されるに至ったのである。
その後、根岸競馬場は関東大震災の被害を乗り越えて、1937年には「横浜競馬場」と改称し運営が続けられていたが、大東亜戦争が開戦すると軍の施設として利用されることとなり、1943年に閉場を迎えた。
横浜競馬場の名残として唯一残されている旧横浜競馬場一等馬見所は、今後横浜市が建物の改修や保全を行い、活用方法を見出していく方針が発表されている。
ダム湖に浮かぶ発電所跡地「旧摺子発電所」(奈良県)
旧摺子(すりこ)発電所は、奈良県吉野郡下北山村にある発電所跡地だ。
廃墟マニアの間では有名な建物で、雄大な自然の中で水上に浮かぶ幻想的な姿が、ファンタジー世界に登場する建物を彷彿させ人気を博している。
旧摺子発電所が建設が開始されたのは、1929年のことだ。
着工から約2年をかけて完成したこの発電所では、現在では池原ダムの湛水域にあたる場所から約2kmに渡る摺子発電所水路隧道を引いて、水力発電を行っていた。
最盛期は約8000kwの電力を供給していたが、新たな発電所として1964年に上流の「池原ダム」、1965年に下流の「七色ダム」が完成したため、旧摺子発電所はその役目を終え、ダム湖の中に取り残された。
以前は貸しボートで建物内に入れたが、現在は老朽化と地震による崩落の危険性があるため、水上や陸地から外観を眺めることしかできない。
訪問見学するにはそれなりの覚悟と体力が必要な廃墟だが、エメラルドグリーンの湖上に浮かぶ人工的なコンクリート造りの建物と、その屋上に自然に根付いた草木が生い茂るミスマッチな姿は、自然の力強さと人間が作る文明の儚さをまざまざと感じさせてくれる。
「不夜城」と呼ばれた産業遺跡「神子畑選鉱場跡」(兵庫県)
神子畑(みこばた)選鉱場跡は、兵庫県朝来市佐嚢にある明延鉱山の選鉱施設として建設された選鉱場跡だ。
明延鉱山は朝来市の隣の養父市にある鉱山で、採掘が開始された時期は戦国時代にまでさかのぼる歴史ある鉱山だ。
かつてはスズを始めとする多品種の金属が採掘されていたが、1987年に閉山され、それに伴い神子畑選鉱場も役目を終えて閉鎖された。
神子畑選鉱場自体もかつては繁栄した鉱山であり、800年頃から開拓されてはいたが、生野鉱山の繁栄により休山し、以後約300年間採掘は行われていなかった。
しかし、1878年に明治政府の調査により有望な銀鉱脈が発見されてからは、積極的な開発が進められた。
その後、1917年に閉山を迎えた神子畑鉱山だが、手狭になっていた明延鉱山の選鉱機能が1919年に移設され、神子畑選鉱場として生まれ変わった。
山の斜面を利用して造られた機械選鉱場は24時間操業され、規模、産出量ともに「東洋一」と謳われたが、1987年に円高の急激な進行により金属価格が大幅に下落した影響で、明延鉱山の閉山と共にその長い歴史に幕を降ろした。
当時の建物はそのほとんどが解体されており、現存しているのは鉄筋コンクリート造りの選鉱場の基礎構造物と、選鉱場の上下を結んでいたインクラインの跡のみである。しかし、国道429号に隣接している区画は「鉱石の道 神子畑ステイション」として整備されており、見学可能でイベントなども開催されている。
ギリシャ神殿を彷彿とさせる迫力のある巨大遺構は、日本の産業の歴史を物語る存在として認知されている。
廃墟とねこの楽園「池島」(長崎県)
長崎県長崎市に属する離島・池島は、かつて炭鉱で栄えた周囲約4kmほどの小さな島だ。
池島は、池島炭鉱の発展に伴い1970年には人口最盛期を迎えた。その後も九州の他の炭鉱が続々と閉山する中で最後まで稼働していたが、2001年についに炭鉱が閉山することとなった。
1970年当時の人口は約8000人にまで膨れ上がったが、2001年の閉山当時の人口は約2700人にまで減少していた。その後、現在に至るまで人口は減り続け、2023年時点での人口は約100人となっている。
長崎の廃墟島といえば「軍艦島(端島)」が有名だが、現在の軍艦島は無人島で建物の倒壊の危険性が高い上に、一部の遺構がユネスコ世界文化遺産に登録されているため、島全体が行政の保護下にあり、島内を自由に散策することはできない。
しかし、有人島である池島なら、廃墟目当ての観光客も島内を比較的自由に散策できる。
池島には現在も、かつての島民たちが暮らした住居や大型アパート、炭鉱施設の数々が残されたままだ。
島内では定期的に「池島炭鉱体験ツアー」も開催されている。
さらに池島は、多くの猫が暮らす「猫島」でもある。
「野良化した飼い猫の子孫」と考えられる池島の人懐っこい猫たちは、島内のそこかしこで日々自由気ままに暮らしている。池島では公営バス以外の車の往来がほとんどなく、暖かい時期には道路の上で猫たちが寝そべっているのだ。
廃墟好きや猫好きにとっては魅力を秘めた穴場観光地である池島だが、島民の高齢化と建物や施設の老朽化は進み続けており、島内唯一の飲食店であった食堂は2023年に閉店してしまった。
現在では池島中央会館が簡易宿泊施設として、観光客に提供されるのみとなっている。
過去の栄華を物語る「鬼怒川温泉廃墟群」(栃木県)
鬼怒川温泉といえば、かつては箱根や熱海と並び「東京の奥座敷」とも呼ばれた有名温泉地だ。
関東近辺に住む人なら、1度は訪れたことがあるという人も少なくないだろう。
しかし、この鬼怒川温泉で現在問題となっているのが、廃業した旅館やホテルの建物が解体されぬまま鬼怒川沿いに建ち並ぶ「廃墟群」である。
鬼怒川温泉廃墟群は、東武鉄道鬼怒川公園駅から徒歩7分ほどの滝見橋から、その全貌を眺めることができる。
渓流沿いの木々の合間に軒を連ねる廃墟は、「元湯星のや」「きぬ川館本館」「鬼怒川観光ホテル東館」「鬼怒川第一ホテル」など、既に廃業している宿泊施設の建物だ。
鬼怒川温泉の最初期の源泉は1691年に鬼怒川右岸で発見されたとされ、古くは「滝温泉」と呼ばれていた。
滝温泉は、日光奉行が支配することになった1751年から明治期までは、日光詣帰りの諸大名や僧侶にだけ利用が許されていた格式高い温泉だった。
明治に入って滝温泉が一般開放され、それからまもなく鬼怒川東岸の藤原温泉が見つかった。
その後も上流にできた水力発電所の影響で、鬼怒川の水位が下がって川底から多数の新しい源泉が発見されたため、1927年に滝温泉と藤原温泉を合わせて「鬼怒川温泉」と呼ぶようになり、鬼怒川沿いに続々と旅館やホテルが開業し始めたのだ。
日本有数の温泉地として観光地化された鬼怒川温泉は、高度経済成長期以降に最盛期を迎えた。
バブル崩壊後の1993年にも年間約300万人以上の観光客が訪れ、企業の慰安旅行の団体客や温泉目当ての国内旅行者で賑わっていた。
しかし、その後は企業旅行の団体客の減少、国内旅行者の減少などが進み、2003年の足利銀行の経営破綻などの影響もあって、数々のホテルや旅館が廃業を余儀なくされた。
中には経営者が急に夜逃げしてしまい、残された従業員だけで予約客をもてなした宿泊施設もあったという。
鬼怒川温泉は豪雨災害や東日本大震災の被害、新型コロナウイルス流行による旅行者の減少を乗り越え、今でも旅行では定番の温泉地として認知されている。
しかし、資金繰りが困難なゆえに解体されないまま残る廃墟群が、バブルの遺産として異様な存在感を示して続けているのである。
廃墟観光はマナーを守り安全第一で
かつては人で賑わい、活気が溢れていたと思われる建物が朽ちていく姿は、どこか物悲しく、それでいて美しい。
特に、今回紹介したような歴史的な出来事を背景に持つ廃墟や遺構は、その多くが芸術性の高い時代の遺物と見なされている。
日本における「廃墟ブーム」は1980年代頃から始まったといわれ、今でも廃墟写真集には一定の人気があり、廃墟巡りや写真撮影を趣味にしている人も珍しくはない。
しかし、廃墟は管理や保全が不十分であることが多く、予期せぬ崩落などの危険があるうえに、許可を取らずに勝手に侵入すれば罪になる可能性が高い。
廃墟巡りをする時は、安全を第一に意識して無茶な行動は慎み、その地域や建物に対して敬意を持って訪問することを意識してほしい。
参考文献 :
『忘れられない日本の廃墟 (ミリオンムック 16)』
黒沢永紀 (著) 『池島全景 離島の《異空間》』
根岸競馬場開設150周年 馬事文化財団創立40周年記念サイト
神子畑選鉱場跡 公式HP
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