初代内閣総理大臣・伊藤博文は、近代日本の黎明期を支えた政治家であるだけでなく、無類の女好きとしても有名であった。
そんな伊藤を支え続けた妻・伊藤梅子は、首相夫人としての役割を果たすために日々努力を重ね、伊藤の奔放な振る舞いに対しても文句を言うことなく、支え続けた気丈な女性であった。
本稿では、賢夫人として名を馳せた伊藤梅子の生涯を振り返る。
芸妓から伊藤博文の妻となる
嘉永元年(1848年)、伊藤梅子(旧姓・木田)は長州で生まれた。
父親は港湾労働者で、梅子は家計を助けるために茶店で働き始めたが、その後、家の事情で下関の置屋の養女となり芸妓・小梅となった。
彼女は美しいうえに頭の回転が早く、聡明さでも評判を得ていたという。
伊藤博文は若い頃に吉田松陰の門下生となり、やがて尊攘運動に参加し京都や江戸を奔走した。幕末の文久3年(1863)には、井上馨らとイギリスへ密航し、西洋事情を見聞してまわった。
しかし、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急遽帰国した。
長州藩は砲撃を受けるも、高杉晋作、伊藤、井上の外交交渉により和議が成立し、危機を免れることが出来たのだった。
梅子が伊藤と出会ったのは、この帰国後のことである。
当時、伊藤は吉田松陰の同じ門下だった入江九一の妹・すみと結婚していたが、美しく聡明な梅子に強く惹かれた。
そして慶応2年(1866)、伊藤はすみと離婚し、梅子と夫婦になったのである。
奔放な夫を支える賢夫人
伊藤は、若い頃から女好きとして有名で、自身も「国務に長時間従事した後は、美しい芸者に酌をしてもらいながら休むのが良い」と公言していた。
明治18年(1885年)、初の内閣制度が敷かれ、伊藤は初代内閣総理大臣に就任したが、女遊びはさらに拍車がかかったという。
伊藤が相手にした女性はほとんどが芸者であったが、その数は千人にのぼるとされ、時には両脇に女性を寝かせるような夜もあった。
伊藤は、茶屋の女将や一流の芸妓たちを自邸のある大磯に連れていき、60代半ばになっても20代の若い芸者がお気に入りであったという。
そんな伊藤の女遊びを、妻の梅子は黙って見守り続けた。
自邸に滞在する女性たちの世話をするのは梅子の役目であり、ある日、伊藤のお気に入りの芸者に対して「御前さま(伊藤)は公務で非常にお忙しい方ですから、あなたが来て慰めてくださるのが一番の息抜きになるのです」と告げたという。
この言葉を聞いた芸者は、すっかり恐縮してしまったそうだ。
梅子は、伊藤が近代日本の礎を築くために日々努力を重ね、その激務をこなす姿を間近で見守っていた。
「公私にわたって伊藤を支えられるのは自分だけだ」という強い自負心を持っていたのだろう。
さらに、梅子は自分たちの間に生まれた子供だけでなく、伊藤が他の女性たちとの間に設けた子供たちも、自分の子供同様に分け隔てなく育てた。
その寛容で慈愛に満ちた姿勢から、梅子は世間から「賢夫人」や「良妻賢母の鑑」と称賛されたのである。
誰もが認めるトップレディーとなる
また、梅子は大変な努力家でもあった。
伊藤と出会った当初、梅子は文字の読み書きができなかったが、結婚が決まるとすぐに文字を学び始め、練習を重ねてその習得に励んだ。
やがて和歌にも興味を持ち、その技量は皇后とのやりとりができるほどまでに上達した。英語の習得にも熱心であり、英文で手紙を書けるようにもなったという。
明治16年(1883年)、鹿鳴館が開館すると、梅子は貴婦人達の中心となって活躍した。
彼女は社交場での洗練された振る舞いだけでなく、宮中の女官の制服を洋装に改める際にも、服地やデザインを熱心に検討し、何度も案を出した。こうした努力の積み重ねによって、梅子は首相夫人として誰もが認めるトップレディーとなったのである。
梅子はまた、何かを発言する際にも、常に伊藤と対等な立場で意見を述べ、一歩も引かない強さを持っていた。
梅子は鹿鳴館で覚えたワインを愛飲していたが、ある日、伊藤が「慣れない酒はやめた方が良いのではないか」と梅子に忠告すると、彼女は「御前が葉巻をおやめになるなら、私もワインをやめます」と切り返し、これには伊藤も苦笑したという。
明治38年(1905年)、伊藤は韓国統監に任命された。
この頃、書記官から「現代で最も尊敬する人物は誰か」という質問を受けた際、伊藤は即座に「天子様」と答えた。
そして「臣下の中で最も尊敬する人物は誰か」と尋ねられると、彼は迷わず「梅子夫人」と答え、さらに「彼女以外にはいない」と断言したという。
この言葉からも、伊藤が梅子に対して抱いていた深い敬意と感謝の気持ちが窺える。
夫の横死にも気丈な妻
明治42年(1909年)10月26日午前、伊藤はロシアの蔵相との会見を予定していたため、ハルビン駅に到着した。
しかし、そこで彼は日本による韓国併合に反対する韓国人青年・安重根によって銃撃され、命を落とした。
梅子は大磯の自邸で夫が狙撃されたことを知った。
初めこそ動揺したものの、井上馨や他の関係者が訪れた際には、取り乱した様子を全く見せなかったという。
そして自室で『国のため 光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり』という歌を詠んだ。
11月に行われた伊藤の葬儀は、日比谷公園で国葬として執り行われた。
伊藤の業績は国民から高く評価されており、人気も高かったため、沿道は人々で溢れかえったという。
伊藤の死後、梅子は穏やかな晩年を過ごしたとされ、大正13年(1924年)にその生涯を閉じた。
伊藤は何人もの女性と戯れながらも、梅子夫人宛の手紙には政治上の打ち明け話まで記していた。そして彼女を尊敬し、感謝することを忘れなかった。
奔放な政治家を陰で支え続けた梅子夫人の存在は、当時の日本において大きな影響力を持ち、彼女もまた歴史を動かす一翼を担っていたといえるだろう。
参考 :
福田和也「総理の女」新潮社2019
にんげん史研究会「こんな女性たちがいた!」講談社2000
文 / 草の実堂編集部
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