町人文化が華開いた江戸時代には、外食の原型もできあがっていた。
明治に時代が変わり、肉を食べるようになってから、日本の料理人は食への探究心によりさまざまな食堂を生み出していった。
そこで、明治以降に登場した食堂の始めについて調べてみた。
目次
江戸時代は奈良茶飯屋・けんどん屋の流行と、料理茶屋が発展
江戸時代初期、明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」の後に江戸の浅草寺の門前にできた、奈良茶飯屋(奈良茶見世)が評判になった。茶飯に豆腐汁と煮豆を添えたもので、江戸時代最初の料理店といわれる。
寛文年間(1661~1672)には、けんどんそば屋が流行した。
けんどんそば屋は無愛想にそばを1杯だけ客に出し、おかわりを勧めたりしなかった。その代わり、当時16文のそばが6文で食べられ、その安さで庶民に大人気になった。
以降、けんどん飯屋やけんどん丼屋などが増加していく。
元禄年間(1688~1703)に登場した料理茶屋は、武家の伝統的で堅苦しい本膳料理に対し、町人の経済力や味覚の変化を背景にして会席料理の形式を取り入れて発展した。
明治時代、西洋料理店の発展・普及と洋食屋の誕生
明治維新後、明治天皇が明治5年(1872)に率先して肉食をして以来、肉食は文明開化の象徴となった。欧米化を進めるため、西洋料理を日本の食事に取り入れる動きが始まった。
西洋料理は安政4年(1857)頃から、日本料理店で兼業する動きがあった。長崎の「先得楼」「迎陽亭」「吉田屋」がその先駆けとなった。
日本で初めての西洋料理店は文久3年(1863)、長崎で開店した「良林亭」(現在はグラバー園に旧自由亭として保存)である。1人前が現在の約2万円だった。
洋食の定義は難しいが、白飯に合うように和洋折衷化された西洋料理といえるだろう。
東京で現存する最古の洋食屋は、明治28年(1895)開店の銀座の「煉瓦亭」である。ポークカツレツに生キャベツを添えたものが人気を得た。
中華料理の普及は遅れた
西洋料理に比べて、中華料理の普及は遅かった。江戸時代に長崎の唐人屋敷に伝来していたにもかかわらず、である。
日本人に豚肉と油料理が忌避されたためだ。
それでも日清・日露戦争後に横浜・神戸・長崎に広まり始めた。明治12年(1879)に、東京・築地居留地に「永和斎」が開店する。
大正年間(1912~1925)には華僑・留学生の増加、中華料理研究家の活躍、ラジオ番組の登場、中華料理書の刊行などが後押しをして、中華料理ブームが起きた。
しかし本格的な普及は太平洋戦争後になる。
駅食堂と食堂車は、外国人と富裕層向けに誕生
明治5年(1872)、新橋ー横浜(現桜木町)間に鉄道が開通した。
同年、新橋駅構内に西洋料理屋が開店し、駅食堂の始まりになった。明治14年(1881)には品川・神奈川・横浜・川崎に2軒の、計6店が営業していた。
食堂車は、明治32年(1899)に私鉄の山陽鉄道(現JR山陽本線など)の京都ー三田尻(現 防府)間を走る急行列車に、日本で初めて連結されたとされる。しかし始まった年は定かではないらしい。
官設では明治34年(1901)に、東海道線の新橋ー国府津間の急行列車に西洋料理専門の食堂車が連結されたのが始めである。
どちらも一・二等の裕福な客向けだった。
明治39年(1906)には三等旅客向けの和食専門の食堂車が登場したが、利用者は少なかった。
デパートの食堂も富裕層に大人気
明治になると、呉服店が業種転換して百貨店に形態を変えた。
明治36年(1906)、東京日本橋の白木屋(のち東急百貨店日本橋店)が呉服店から洋風の3階建店舗に建て替えたさいに、汁粉屋・そば屋・寿司屋などの飲食堂が入店した。
明治37年(1904)三越呉服店がデパートメントストアーに進出し、日本初の百貨店となる。明治40年(1907)に東京日本橋本店に食堂を開店した。
白木屋は明治44年(1911)の大増築を機に本格的な食堂を開店し、大正14年(1925)に食券制を導入した。
昭和5年(1930)三越はお子様ランチ(30銭)を登場させた。30銭あればカレーライスが3人前食べられる時代に、大人気となった。
貧困層は大衆食堂から、公設の簡易食堂へ
明治期には西洋料理の普及に伴って富裕層が支えた飲食店は、大正に入った頃から食堂と呼ばれ、大衆化する。
大正13年(1924)に東京神田須田町にできた「須田町食堂(現 聚楽)」は、「簡易洋食」ののれんをかけて、リーズナブルで新しい洋食を提供した。初の大衆食堂である。「ウマイ・ヤスイ・ハヤイ」のキャッチフレーズはその後、「吉野家」などほかの店でも使われることになる。
大正7年(1918)は小麦粉の需要拡大により価格が暴騰、うどん屋の廃業が相次ぐ。また買い占めにより米価も大暴騰して、米騒動が起きた。
生活困窮者に対し、この年の1月に医師で社会事業家の加藤時次郎が、東京・芝区烏森町(現 港区新橋)に「平民食堂」を開店した。1食10銭。簡易食堂の始まりである。
8月には大阪自彊館が、大阪・日本橋に「第一簡易食堂」を開設した。1食10銭で食べ放題とあり、長蛇の列ができたという。
米騒動ののち、地方から来た労働者や学生を対象に、神田昌平橋に公設の簡易食堂が開設された。朝食10銭、昼・夕食15銭で、分量は普通の倍だったらしい。続いて九段、本所、浅草などにも順次開設した。
第一次大戦の好景気が去り、失業者を対象とした公設食堂が各都市に開設され、どこも人気になる。
大正12年(1923)には関東大震災で被害を受けた市民のために、東京市が市営公設食堂を開店した。
外食券食堂の登場、雑炊食堂で飢えをしのぐ
昭和12年(1937)以降、日用品の配給制が広がっていき、昭和16年(1941)には米も通帳による配給制になった。
同時に外食券制が始まり、配給された外食券と引き換えに食事を提供する外食券食堂が現われた。
太平洋戦争中の昭和19年(1944)、東京都はビヤホール、百貨店、大喫茶店などを利用して雑炊食堂を開設。その年に都民食堂に改称された。
昭和20年(1945)には、都民食堂は外食券食堂に切り変わった。
ファストフード店の登場、気軽に外食ができる時代になる
戦後の食糧統制により、昭和22年(1947)から全国の料理屋と飲食店の営業が規制されていたが、昭和24年(1949)に再開された。
高度経済成長期の昭和33年(1958)、帝国ホテルは第二新館オープンのさいに、一定料金を支払ったら食べ放題になる新しい食事の形式を採用した。その形式が「バイキング」と呼ばれるようになった。
昭和45年(1970)3月、KFCインターナショナルが日本万国博覧会で実験店を出店し、日本ケンタッキー・フライド・チキンを設立した。
また、食品スーパーのことぶき食品が業種転換して、7月に東京府中に「ファミリーレストラン すかいらーく1号店」を開店した。
それらにより、この年(1970年)は「外食元年」と呼ばれる。
外食はたまの奮発した食事から、手軽に手頃な値段で食べられるものに変化して、現在に至る。
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