真珠湾攻撃はすべきだったのか?
日独伊三国同盟に至る経緯
●反対派(三羽鴉)
海軍大臣:米内光政
海軍軍務局長:井上成美
海軍次官:山本五十六
●賛成派
陸軍大臣:板垣従四朗
陸軍・海軍:右翼派
山本五十六が「日独伊三国同盟反対の急先鋒」であると陸軍・海軍の右翼派に知れわたり、陸軍・海軍の右翼派の暗殺リストに「山本」の名前がのった。
きな臭くなってきた陸、海軍の動きに山本五十六は自身の身を案じ遺書を書く(二・二・六事件後でもあった為)。遺書は「戦場に武人として死ぬ事はたやすい。しかし戦争への破滅を命を懸けて阻止する事こそが大事な事なのだ」という内容であった。
山本の身を守る為、米内内閣は緊急避難的人事異動を決めた(そして山本は戦艦長門に乗り込む事になる)。だが山本がもし「海軍次官」を継続できたなら、「日米開戦を阻止できた可能性」がいくらかあったかもしれない。
しかしその後、枷がなくなった日本は「三国同盟」に調印するのである。
及川海相が「同盟が決まってしまった。山本勘弁してくれ」と山本に頭を下げても「勘弁ですむか!!」と山本は悪態をついた。
開戦41日前、軍令部総長に「成算なき闘いはすべきではない」と直言したぐらい三国同盟には反対だった。
三国同盟が決まってから間もなく、山本は近衛首相に内密に呼ばれ、意見を求められた。
「アメリカとの戦いに勝算はあるか?」山本は「もし戦えば1ヶ月・2か月は暴れてみせます。しかしそれ以上は変わりません」と
つげたのである。
山本は本当に「開戦」に反対だった。「ドイツと同盟したという事は、アメリカとの戦いになる。そうなったら日本に勝ち目がない」
山本はそれを首相にいえなかったのである。朋友の井上成美は「山本さんは曖昧な言い方をせず、海軍は対米戦争はやれません。やれば必ず敗けます。と言うべきだった」と断言する。
そして日米外交が一段と急を増し困難になってきたのである。どうしようもない時代の中、辞任をする近衛首相だった。
その後を東条英機が後を引き継ぐ事になる。
「新高山登レ1208」真珠湾奇襲作戦決行!山本五十六の誤算
「真珠湾攻撃米戦艦被害一覧」●赤(オレンジ)完全喪失 ●黄色:小破
1941年12月8日:真珠湾攻撃開始!!「トラ・トラ・ワレ奇襲ニ成功セリ!」
●第一次攻撃
艦攻89機(雷装40機・爆装49機)艦爆(51機)戦艦(零戦)43機
●第二次攻撃
火炎で目標確認できずアメリカの対空砲火もあり被害は大きいものとなった。
しかしこれ程の破天荒な作戦を練りながら、山本は第二次攻撃を行えず、米軍の工場や石油施設を破壊しなかった。これをしていれば、アメリカ海軍の反撃は6ヶ月遅れただろうと言われている。
「主戦」といいつつも、戦艦をいくつか沈めただけの作戦で終わってしまった事が、残念でならない。
(山本五十六の思わぬ誤算:3点)
1、攻撃目標アメリカ主力空母が2隻不在だった。エンタープライズ、レキシントン。そのツケを半年後「ミッドウェー、レイテ島、硫黄島」で払う事になる。
2、南雲忠一第一航空艦隊司令長官「直ちに第二撃をし、燃料タンクや工場を破壊すべし」司令部の意見「再攻撃」にしり込みしてできず。
3、アメリカ世論の反発
山本は「開戦冒頭には、敵艦隊を猛攻撃破し士気を喪失する」事を目標。「主作戦」であり「徹底的に叩き早期講和すべし」が山本の構想だったが、アメリカは「リメンバー・パールハーバー」と一丸となり猛然と立ち上がる。
もし彼があるべき適所の地位にいたならば、悲惨な敗北にはならなかったであろう。彼はあくまでも「軍人」であり「外交官」ではなかった。「軍人は軍人らしく」「さもあらん」という苦しい心境であったに違いない。
「人は神ではない!誤りをするというところに、人間味がある」~山本五十六名言集~
散りても 薫る 武士の花
1942年ミッドウェーでの大敗、ガタルカナル島敗北に2万人に及ぶ撤退、ニューギニアへの輸送兵士約3000人の死亡などソロモン諸島周辺の日本軍の士気低下を打破する為、機動部隊の艦載機に陸上の航空機が敵軍に大打撃を与える航空作戦「い号作戦」が建てられた。これは、山本五十六の立案とされている。
ガタルカナル島に近い日本の発進基地はラバウル、ブイン、バレラであった。1943年4月山本五十六は、熾烈を極めたラバウルに降りたった。山本は日頃から「最高司令官は前線にでていくものではない」と口にしていた。
この頃から日本の勝利の芽は完全に失われていたし、山本自身生への執着がなくなっていたようにも思える。
「い号作戦」終了後、4月18日バレラ基地慰問を、山本は決めている。
日本軍は暗号でこの連絡を関係方面に送っていた。すでにアメリカが日本軍の暗号を、解読しているとも知らずに・・
運命の日、4月18日早朝、山本五十六を乗せた1式陸攻は、アメリカ軍に待ち伏せされ撃墜、ブーゲンビル島のジャングルで機体は3つに分裂、バラバラになって散っていった。享年59歳であった。
しかし山本五十六は墜落後も、生存していた可能性があるという一説もある。
墜落現場は蠅が多く、死後時間が経っている遺体の多数がウジ虫が発生していたが、山本の遺体は「身体にさほど大きな損傷はなく、ウジ虫の発生もさほどなかった」と言われている。墜落の際、官僚や手すきの者が「盾」となり、墜落の際に「スクラム」を組んで、山本を守ったのではないだろうか。
山本の死=日本の敗戦と言っても過言ではないだろう。
さいごに。
五十六は何回も、司令長官と辞任したいと願ったが「お前しかいない」と何度も言われ、退く事が出来なかった。しかし戦後72年経っても山本五十六の人気は衰えない。五十六の母が贈った言葉「散りても 薫る 武士の花」まさに山本五十六そのものの様に思われる。彼の残した「名言」も言葉だけでなく、あの時代に精一杯生きたという証として、今もなお心に響くのである。
山本の遺体は日本に運ばれ「国葬」が行われ、多摩名誉墓地に埋葬されている。
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