七福神という七人の神様が存在することは大多数の方が知っているだろう。
しかし、七福神がいつから存在して、それぞれの名前やどのような福の神であるかを知っている人は意外に少ないかもしれない。七福神とはどのような神様なのか調べてみた。
福の神とは
福の神とは本来、食べ物の供給、交通の安全、災厄を祓うといった役割によって、人に福徳をもたらす存在であった。しかし、時代が移り変わるととともに、財宝・威信・和合などというような人間の欲望の満足させるために、福の神への信仰は複雑なものへと変化していった。
七福神は最初、室町時代以前から深く進攻されていた大黒神と恵比須神が盛んに祀られていたが、室町時代以降になると、人間の欲望が増したためかその他の福の神が加わり「七福神」として確立された。七福神は世間に紹介され、信仰すれば福が得られると歓迎されるに至った。
しかし、七福神は歴史の中で現在七福神として数えられていない神が加わっていたり、逆に現在の七福神の中で当時はいない神もいた。時には七人の神ではなく、他の福の神も加えて八人の神として信仰されていたこともあった。
それは福の神が室町時代から江戸時代初期へかけて、社会の要求に応じて現れた町衆文化の一つであったからだ。人々は七福神を信仰することにより、戦乱・天災・飢饉・疫病から免れ、長寿・富・豊作を願い、生活していた。
七福神の由来
「七」人の神が集められたのは、まず、室町時代に様々な種類分けをし、同じ種類のものを集めて名数的にモノを数えることが流行していたことが挙げられる。その中でも「七」という数字は、古代より日本に大きな影響を与え続けていたのである。特に仏教において特別な位置を占めていたことがカギを握っていたと言われている。仏教の経典の一つに『仁王護国般若波羅蜜教』というものがある。この経典の巻下・受持本の中に次のような言葉がある。
「南閻菩提には十六大国・五百中国・十余小国有り。その国土の中に七難有り。一切国王この難のための故に、般若波羅蜜を購読す。七難即滅。七福即生、萬姓安楽、帝王歓喜す」
七福神はこの言葉の中の「七福即生」の「七福」に由来するという説が、現在最も有力とされている。しかしながら「七福」は中世以降「しっぷく」と読まれることが常であり、「七福即生」が由来という説は有力ではあるものの決定付けられてはいない。何故なら、室町時代の辞書である『易林本用集』に七福は「天病、端正、身香浄衣、肥体、多々人饒、所説粛申、自然衣服」と記載されているからである。しかしながら、七福というものが本当に辞書に記載されている通りのものなのか、本来は何を指しているかは実は現在でも解明できていない。
『七福神の御詠歌』では七福神がどのような福の神であるかが詠まれている。
恵比寿 ・・・・・・ 釣り上げし 魚を宝と抱きしめて 笑う恵比寿の 神の御威徳
大黒天 ・・・・・・ 打つ槌に 宝の雨をふらしつつ 無福の民を 救う御神
弁才天 ・・・・・・ ひく琵琶の 妙みょうなる音にも似たるかな 福を喜ぶ 諸人の声
毘沙門天 ・・・・・ 魔を降す 猛き姿にひきかえて 情けにあまる 福徳の神
布袋尊 ・・・・・・ 限りなき 宝の布袋みてはげめ 笑う門には 福来たるなり
寿老人 ・・・・・・ 玄鹿の 命長きにあやかれと 杖を引きつつ 世を救う神
福禄寿 ・・・・・・ 仰あおぎ見る その御頭の長きごと 延寿の徳を 与えまします
特別視され続ける数字「七」
日本独自の文化の中にも「七」という数字が長きにわたり、人々に特別視されているという事実が確固としてあるのだが、京都府京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山に吉田神社という神社があり、この神社は鎌倉時代に建立された。
なんとこの吉田神社は日本全国の神社の中心であることを主張して建立されたのだが、神社の屋根の真ん中には露盤が置かれている。その露盤が実は正七角形の形をしているのである。吉田神社が日本全国の神社の中心であり、真ん中に正七角形の露盤があるということは、言い換えれば「日本の中心に【七】がある」ということを指しているのだ。
現代でも「七」は善の性質を持ち得る数とされることが多い。「七」の特別視は普遍的なものであると言える。そして「七福神」について一定の概念が成立したのは室町末期であり、七福神信仰も室町時代からずっと存在するのだが、日本の古典文学で「七福神」全員がそろっているのは『梅津長者物語』という物語だけだ。
「七」が特別視され、また福の神が七人という「七福神」への信仰が流行したにも拘らず、現存する多くの古典文学の中で「七福神」がそろう話が『梅津長者物語』ただ一つであるというところも興味をそそられるので、今後も「七福神」について紐解いていきたい。
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