清朝(1644年-1912年)は、中国の最後の王朝であり、満洲族が統治した。
清朝は漢民族王朝である明朝を打倒して成立し、その統治は約270年にわたり、多くの改革と変遷を経て中国の歴史に深い影響を与えた。
支配を確立するために様々な政策を実施したが、その中でも特に注目されるのが「薙髪令 (ちはつれい)」である。
この法令は、全ての男性に対して頭頂部だけを残して髪を剃り、その部分を長く伸ばして三つ編みにすることを強制した。僧侶や禿頭(脱毛症などの理由)以外の男性は、皆この髪型に従わなければならなかった。
そして違反者には「斬首刑」という厳しい罰が科せられたのだ。
この法令は、満洲族の文化と信仰に深く根ざしていた。彼らは頭頂部を「天の神に最も近い神聖な場所」と見なし、この部分に髪を残すことが重要だと考えていた。
また、この髪型は、狩猟や戦闘において実用的であり、満洲族のアイデンティティを象徴するものでもあった。
漢民族の抵抗と反発
漢民族にとって、髪は文化や伝統の象徴であり、それを強制的に変えさせられることは、アイデンティティの否定を意味した。
このため、薙髪令に対する反発は強かった。
明朝の残党は
「頭可斷,髮決不可剃!」(頭は刈られても、髪は剃らせない!)
というスローガンを掲げて抵抗した。漢民族にとって髪を剃ることは屈辱であり、死をも覚悟して抵抗する覚悟であった。
しかし同時に、こんなスローガンも掲げられていた。
「留頭不留髮,留髮不留頭!」(頭を残したければ、髪を残すな!髪を残せば、頭を残せない。)
つまり、髪をキープしたい者は残念だが頭をキープできない。斬首刑になって命を落とすということだ。
弁髪の変遷
薙髪令によって定められた髪型は、清朝の前期、中期、後期で少しずつ変化していった。
前期の弁髪は「金錢鼠尾」と呼ばれ、後頭部に親指の先ほどの大きさの部分だけ髪を残し、その部分だけを伸ばすスタイルであった。
中期、後期になると、髪を残す部分が少しずつ大きくなり、全体としての見た目も変わっていった。
弁髪は、かなり臭かった?
しかし、当時の衛生状態は非常に悪く、髪を洗うための薬剤も高価であったため、多くの人々は髪を洗う機会が限られていた。
貧しい家庭では、一生弁髪を洗わないことも珍しくなかったという。皇帝や高官でさえ、週に一度しか洗わなかった。農民や平民は3ヶ月に一度の頻度でしか髪を洗えず、その間に汗や皮脂が溜まり、非常に不潔な状態となった。
あるイギリスの宣教師は、当時の清朝の男性の弁髪についてこう語っている。
「農民の頭は臭すぎて、死んだネズミのような不快な悪臭がした。まるで、ネズミの巣の中にいるかのようであった。私は、嘔吐しそうになるくらいであった。その後、何日間もその悪臭を思い出すだけで、ご飯が喉を通らなかったほどだ。」
その悪臭がどれほどのものだったのか、想像できるエピソードだ。
髪を洗えない100日間
さらに清朝には、髪を洗うことに関する規則もあった。
皇室の成員が亡くなると、全ての皇族や高官は「100日間髪を洗ってはいけない」という規則があったのだ。
この期間中に髪を洗うことは喪に服することに反するとされ、厳しい罰が科せられた。
つまり、髪を洗う習慣があった貴族たちでさえも、不潔で臭い状態にならなければならない時期があったのだ。
外国人から見た「弁髪」
外国人にとって、弁髪は非常に奇妙な髪型に見えたようだ。
アメリカで描かれた風刺画では、弁髪が「豚のシッポ」として描かれ、清朝は「野蛮で知恵のない弱い国」として揶揄された。
国の統一のために推進したシンボルが、皮肉にも「野蛮さを示すもの」として見られてしまったのだ。
最後に
「薙髪令」は、清朝が漢民族に対して強制したものであり、その背景には満洲族の文化と信仰があった。
支配者としての優位性を示し、漢民族を同化させる必要性があったのだ。
しかし、多くの反発を招き、その見た目や不衛生さから外国人にも揶揄されてしまう形となった。
このように「薙髪令」は文化的な衝突を引き起こしたが、その後の時代を経て、弁髪は清朝の支配を象徴する独特の文化として定着し、清朝の歴史と共に語り継がれている。
参考 : 清朝人多久洗1次辮子-傳教士當場吐
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