名前だけ知られた三国志の勝者
司馬炎は、西晋の初代皇帝として三国時代を終結させた人物である。
およそ百年にわたる群雄割拠を統一へと導き、その名は歴史の教科書にも刻まれているが、生涯の詳細はあまり語られることがない。
皇帝でありながら、三国志を題材とする創作作品での登場場面は決して多くなく、知名度の割に描写は控えめだ。
今回は、この最後の勝者となった司馬炎の歩みを、史実に基づいてたどっていきたい。
魏最大のエリート

画像 : 司馬炎(聖君賢臣全身像冊 晉武帝)public domain
司馬炎は236年、司馬懿の次男である司馬昭と、その正室・王元姫の長男として生まれた。
その系譜をたどれば、祖父の司馬懿は言うまでもなく、曽祖父の司馬防、さらに伝承では戦国期から秦にかけての武将・司馬卬(しばごう)まで遡る名家の血筋である。
魏でも最大の名門といっても過言ではない家系であり、超名門の司馬家に生まれた司馬炎は、エリート中のエリートだった。
若年期の具体的な逸話は多く残されていないが、本籍地である河内郡では「九品官人法」の登用基準として「比較できる者がいないほど優秀」と評されたという。※九品官人法とは、人物を九段階に評価して官職に登用する制度。
ただし、これは後世の美称とも考えられ、史実としての信憑性は高くない。
九品官人法は本来、家柄ではなく才能で登用する制度だったが、実際には有力者の意向が強く働き、司馬炎も祖父や父の後を継いで順調に昇進した。
やがて司馬師と司馬懿が相次いで没し、魏の軍政を握る司馬家の実権は、司馬昭の手に移った。
そして、長男である司馬炎がその後継者になると目されていたが、ここで思わぬ問題が生じる。
司馬攸との後継者争い

画像 : 左が司馬攸、右が司馬昭 (清代『三国志演義』より)public domain
司馬師には実子がなかったため、弟の司馬昭は兄の家を継がせるべく、三男の司馬攸(しばゆう)を養子に送っていた。
司馬炎と司馬攸は、同じ父母を持つ実の兄弟であり、本来であれば長兄である司馬炎が家督を継ぐのが順当であった。
しかし人柄や才覚においては、弟の司馬攸が兄を上回ると評されることが多かったのである。
幼少期から聡明温厚で、文才にも優れ、軍事・政務の両面で民望を集めた司馬攸は、祖父の司馬懿のみならず、父の司馬昭からも深く愛されていた。
蜀漢滅亡の翌年、咸熙元年(264年)に晋王となった司馬昭は、後継者の指名にあたり「養子とはいえ、兄・司馬師の跡を継いだ司馬攸こそ相応しい」と考えていたという。
これは、宗家の正統を重んじた判断でもあった。
しかし、この案は重臣たちから異議を唱えられた。
古来より、長子を立てる慣例を破ったことで国が乱れた例は少なくない。
こうした背景に加え、曹操と曹丕・曹植、袁紹の後継者争いといった過去の例が引き合いに出され、最終的に司馬昭は、司馬炎を世子に立てる決断を下した。

画像 : 司馬昭 public domain
しかし、この決定に司馬昭が最後まで納得していたかは定かでない。
死の間際まで司馬攸を気に掛け、その将来を案じていたとされる。
後世には、司馬昭の遺詔が司馬炎派によって改竄されたとの説もあるが、確証はない。
また、兄弟の母である王元姫も、臨終に際して司馬炎に「弟と仲違いするな」と繰り返し諭していたという。
やがて皇帝となった司馬炎にとって、自分より人望を集める弟の存在は看過しがたいものであったが、呉の二宮事件のように国を二分するような内紛は避け、表立った衝突はなかった。
なお、両親の死後も司馬攸は晋の要職を歴任し、少なくとも呉の滅亡までは冷遇らしい冷遇を受けた形跡は見られない。
むしろその実務能力ゆえに、統一前の晋において重要な役割を担い続けていた。
三国統一後の司馬炎

画像 : 西晋の孫呉攻略 public domain
太康元年(280年)、晋は呉を滅ぼし、約百年に及んだ群雄割拠の時代は終焉を迎えた。
これにより、中国全土を支配する晋は、後漢末以来およそ90年ぶりの統一政権となった。
しかし、最大のライバルだった呉が滅び、国内から有力な対抗勢力が消えると、司馬炎は国家運営への緊張感を失い、次第に政治への関心を薄れさせていった。
それまでの司馬炎が無難な政務運営を心がけていたのは、あくまで呉に付け入る隙を与えないためであった。
統一後も治世は安定していたが、積極的な改革や遠大な施策はほとんど見られない。
もっとも、魏末に宗室を権力中枢から遠ざけた結果、司馬氏の簒奪を許したという前例を踏まえ、晋では要職を司馬氏一族で固める体制が敷かれた。
これは短期的な政権安定には寄与したものの、後に一族間の内紛を招く火種ともなった。
政策面では、三国統一後の軍縮や、成人男子に土地を分与する占田・課田制(せんでん・かでんせい)の実施などが挙げられるが、それらも制度的な整備の域を出ず、治世全体を特徴づけるほどの革新性はなかった。
やがて、司馬炎は皇帝として後継者を決める局面に直面する。
長男の司馬衷(しばちゅう)はすでに成人していたが、資質に乏しく、後に飢饉の際「米がなければ肉を食べればよいではないか」と語ったと伝わるほど、世情に疎く暗愚な人物であった。
この逸話は後世の脚色の可能性も高いが、同時代においても暗愚の評判は広く知られており、重臣や民衆の多くは依然として司馬攸の継承を望んでいた。
司馬攸の死
晋が三国を統一した当時、世子の司馬衷はすでに成人していたが、その暗愚ぶりは朝廷内外に知れ渡っていた。
一方、皇弟の司馬攸は温厚で才覚に優れ、重臣の多くが彼を次期皇帝に推していた。
能力・人望のいずれを取っても、どちらが後継者として望ましいかは明らかだった。

画像:司馬炎 public domain
しかし司馬炎は諫言を退け、長男の司馬衷を指名した。
司馬攸は形式上は重職に留まりながらも、実質的には都から遠ざけられ、斉王として青州方面への赴任を命じられた。
これが「厚遇」に見せかけた左遷であることを、司馬攸自身も理解していたという。
失意の中で病となった司馬攸は、「母・王元姫の墓を守りたい」として官職辞退を願い出る。
しかし侍医が「病気ではない」と虚偽の報告を行ったため、司馬炎は許可せず、予定通り斉への出立を命じた。
そのわずか二日後、司馬攸は血を吐いて急死した。
弟の死に際し、司馬炎は虚偽報告を行った医師を処刑し、深く嘆いたとされる。
しかし、同時代の逸話によれば、侍中・馮紞(ふうたん)が「皇帝よりも支持を集めていた司馬攸の死は、むしろ幸いである」と述べるや、司馬炎はその言葉に内心同意したのか、悲しみが急速に冷め、涙も止まったという。
兄弟の父である司馬昭も、母の王元姫も、生前から二人の不和を憂えていた。その危惧は現実となってしまったのである。
皇帝になってしまった凡人?

画像 : 司馬衷(しばちゅう 恵帝)西晋の第2代皇帝 public domain
司馬攸の死から七年後の290年、司馬炎は56歳で崩御した。
その後は、長男・司馬衷が予定通り後を継ぎ、西晋の第2代皇帝(恵帝)となった。
しかし司馬衷は、後世の史家から「歴代皇帝の中でも匹敵するものがない愚か者で、馬鹿すぎて国を潰した」と評されるほど暗愚であった。
彼の治世で晋は急速に弱体化し、皮肉にも司馬炎が一族の権力を強化するため各地に配置した王侯たちが争い、「八王の乱」と呼ばれる大規模な内乱が勃発。
これが、もとより脆弱だった晋を滅亡へと追い込む決定打となった。

画像 : 八王の乱 封国分布図 public domain
司馬炎自身は、在位中に目立った実績を残すことはほとんどなかった。
晩年の司馬炎は、祖父・司馬懿、伯父・司馬師、そして父・司馬昭が築いた地位を受け継いだに過ぎないと評されることもあった。
ある時、司隷校尉の劉毅(りゅうき)に「歴代の皇帝で言えば、自分はどのあたりに当たるか」と尋ねたところ、返ってきたのは意外にも辛辣な一言だった。
「陛下は桓帝、霊帝のごときお方です」
桓帝はまだしも、霊帝は当時から暗君の代名詞である。
それを引き合いに出された司馬炎は不快感を示し、「その評価はあまりに厳しすぎる」と抗議する。
しかし劉毅はさらに踏み込んだ。
「桓帝も霊帝も、官職を売って得た金は国庫に納めました。陛下はそれを私財とされる。そこだけを見れば、お二人よりも下でしょう」
思わぬ反論にも、司馬炎は笑いながらこう返した。
「桓帝や霊帝に、そんなことを面と向かって言える者はいなかった。私にははっきり言ってくれる者がいる。それだけでも同じではないだろう」
売官の事実を否定しなかった点は看過できないが、司馬炎には臣下の辛辣な意見を笑って受け止める度量は確かにあった。また、悪政を敷いたわけではないため、暴君とも言えない。
しかし、為政者として突出した資質を備えていたとは言い難いだろう。
盛り塩の起源は司馬炎?

画像 : 司馬炎と妃嬪たち イメージ 草の実堂作成(AI)
司馬炎には、他にも有名な逸話が残っている。
彼は生来の女好きで、273年には全国で女子の結婚を禁じ、後宮に入れる5,000人を自ら選抜したという。
後宮全体では1万人以上の女性がいたとされるが、この中には侍女なども含まれており、実際の対象はそれより少なかった。
それでもなお、全員と関係を持つのは到底不可能な人数だっただろう。

画像 : 車に乗り後宮を巡る司馬炎 武帝後宮巡回絵 public domain
そこで司馬炎は、羊に引かせた車に乗り「羊が止まった部屋の女性と一夜を共にする」という奇妙な方法を考案した。
女性たちは羊を自室の前で足止めするため、竹の葉を差し出し、さらに塩を盛って誘ったという。
羊は竹を食べ、塩を舐めるためにその場にとどまり、結果的にその部屋の女性が司馬炎と一夜を共にできたのだ。
この「盛り塩」が、やがて日本にも伝わったとする説がある(他説あり)。

画像 : 盛り塩 wiki©Show ryu
もっとも、この話にはちょっとしたオチがある。
盛り塩で羊を引き寄せようとする者があまりに多かったためか、司馬炎はそうした小細工に頼らない女性を好むようになっていったのだ。
その代表が貴嬪(側室)の胡芳(こほう)であり、彼女は司馬炎の寵愛を受け、その部屋は皇后をもしのぐほどの豪華さで飾られたという。
権力を握り、天下統一を果たしたにもかかわらず、政治よりも後宮での享楽に傾倒していった司馬炎の姿は、西晋の盛衰そのものを象徴していたのかもしれない。
参考 : 『晋書』帝紀・武帝紀、恵帝紀『資治通鑑』『世説新語』ほか
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
画像生成AIを使うようになってからオタク臭いアニメ絵が増えて残念です。
好みの問題ですので事の是非ではなくあくまで個人の感想ですが、見出しで興味を惹かれてもヲタ臭いサムネイルにうんざりして記事へのアクセスまで行わない事が増えました。
ご意見ありがとうございます。
近年は画像生成AIの普及に伴い、アニメ調のビジュアルが増えている傾向があります。弊サイトでも記事内容や読者層に合わせてリアル調よりにするなど工夫もしておりますが、結果としてお好みに合わない印象を与えてしまった点は申し訳なく思います。
実際のところ、生成AIによるビジュアルは閲覧数が明らかに多く、歴史にあまり詳しくない方にも興味を持っていただけるきっかけになっている面があります。ただし、サムネイルは記事の第一印象を左右するため、歴史画や写真など他の表現も組み合わせ、より多様なビジュアルを取り入れる工夫も続けてまいります。
貴重なご感想をありがとうございました。