魏王朝の政変
もはや魏においては不可欠の存在となった司馬懿(しばい)は魏帝・曹叡(そうえい)が逝去すると、曹爽(そうそう)と共にその後を任せられます。しかし、次第に曹爽率いる一派は増長し、魏国内の権力を独占するようになります。
しかし、海千山千の戦いを経てきた司馬懿はこの事態に動じず、曹爽らを打つ機会を静かに窺います…。
今回は三国志後半の影の主役とも呼ばれる司馬懿が、後の晋王朝樹立のキッカケを作った魏王朝最大のクーデター事件「正始政変(せいしせいへん)」またの名を「高平陵の変(こうへいりょうのへん)」について紹介していきます。
曹叡死す
239年、司馬懿が遼東の公孫淵(こうそんえん)を討伐し、洛陽へと帰還する途中、魏皇帝である曹叡が病に倒れ、危篤であるとの急報が司馬懿の下に知らされます。
余命いくばくもない曹叡の下に駆け付けた司馬懿は、曹真(そうしん)の嫡子である曹爽と共に次期皇帝である幼い曹芳(そうほう)の補佐と魏国の生末を任せられます。
曹叡が崩御し、曹芳が跡を継ぐと、曹爽は大将軍と侍中(じちゅう)に任命され、宮中において特権を与えられます。一方の司馬懿も軍のトップである大尉(たいい)を引き継ぎながら、曹爽と同じ特権を授けられます。
表面化する対立
当初は曹爽も司馬懿を敬っており、宮中は平穏を保っていました。しかし、曹爽を取り囲む何晏(かあん)を中心とした一派は、司馬懿に対して良い感情を持っておらず、曹爽に司馬懿を政務から遠ざけるよう進言します。
進言を受けた曹爽は司馬懿を名誉職である太傅(たいはく)に任命し、政治の中心から遠ざけようと画策します。しかし、司馬懿は依然軍のトップであり、さすがの曹爽も司馬懿から軍権まで取り上げることは出来ませんでした。
241年、曹叡が崩御したのを機に呉の孫権は大規模な出兵を行います。戦いは揚州、荊州二方面に及び、特に荊州は呉の朱然(しゅぜん)が樊城(はんじょう)にまで軍を進め、危機に陥っていました。しかし、司馬懿が至急援軍に駆け付けたため、朱然を退けることに成功します。
一方、司馬懿の名声が増々高まることを危うんだ曹爽は自らも軍功を挙げようと計画します。そして243年、蜀の大将軍である蔣琬(しょうえん)が漢中より退いたことを知ると10万の軍勢をもって蜀討伐を宣言します。
曹爽一派の専横
翌244年、曹爽は大軍を率いて漢中に向け進軍します。しかし、司馬懿はこの計画に反対しており、実戦経験のない曹爽では失敗するだろうと予測します。
そして司馬懿の予測通り、曹爽は蜀の王平(おうへい)に散々に翻弄され、軍は無残に敗北してしまいました。
この失敗で名声を失うことを恐れた曹爽は宮中をさらに自分の一派で取り仕切るよう強化し始めます。そのため、司馬懿との対立は激しさを増します。
246年に再び呉の朱然が侵攻してくると、軍の方針を巡っては両者は対立し、曹爽の独断専行のため、魏軍は大敗。これを見た司馬懿は高齢を理由として自宅に引き籠もってしまいます。
司馬懿が引退したことを知った曹爽と何晏らはますます専横を極め、次第に皇帝の曹芳をも蔑ろにし始めます。一方で司馬懿に対しての警戒も解いておらず、司馬懿の動向をつぶさに監視していました。
しかし、司馬懿は曹爽らの想像以上に老獪な人物だったのです…。
司馬懿の狸芝居
248年、曹爽配下の李勝(りしょう)は荊州刺史へ就任の報告を兼ねて司馬懿の様子を探りに行きます。すると、そこには憔悴しきった司馬懿の姿がありました。
司馬懿は下女2人に両脇を支えられ、衣服はずり落ち、薬を飲もうとしても、こぼして胸元を濡らしてしまうというありさま。また、李勝の言うことを聞き間違えたり、自らの容態について弱気な発言を繰り返す始末。
この司馬懿の耄碌(もうろく)ぶりに李勝も涙を禁じ得ず、曹爽に司馬懿はもう長くはないこと、警戒する必要もないことを報告します。
この報告を聞いた曹爽はすっかり安心してしまい、司馬懿に対する警戒を解いてしまいます。
しかし、李勝が報告した司馬懿の容体は全て司馬懿による狸芝居だったのです…。
正始政変 ~高平陵の変~
249年、皇帝曹芳は亡き曹叡の陵墓に参拝するため曹爽ら重臣一同を引き連れて、陵墓のある高平陵(こうへいりょう)へと向かいます。
この時、曹爽の側近である大司農の桓範(かんはん)は洛陽を留守にすることは危険であると警告するも、曹爽は取り合いませんでした。
そして、この時を待っていたとばかりに、司馬懿はすぐさま行動を開始します。まず、曹叡の皇后であった郭太后(かくたいこう)に上奏を行い、クーデターを正当化させます。その後、洛陽の各陣営を占拠し、曹爽指揮下の兵を指揮下に置きました。
一方、洛陽に留まっていた大司農の桓範は司馬懿より協力するよう誘いを受けますが、曹爽の下へと逃亡し、司馬懿が謀反を起こしたことを曹爽に報告します。
うろたえる曹爽らに対して桓範は「魏帝曹芳を奉じて許昌(きょしょう)の武器庫を占拠し、司馬懿討伐の軍を募れば必ずや勝機がある。決戦に挑むべきである!」と必死になって説得します。
しかし、司馬懿は「降伏すれば免官とし、命だけは助ける」と勧告したため、戦意を亡くした曹爽は「司馬仲達殿はただ私の権勢を奪いたいだけであろう…。富豪の身でいられるのならば、司馬懿に降伏してもいい…。」と降伏を受け入れます。この曹爽の対応を見た桓範は絶望し、嘆きます。
「あなたの父である曹真殿は優れた御方だった…。
しかしお前らは豚か子牛に生まれたのか! お前たちのせいで、族滅の憂き目にあうとは思いもしなかった…。」
権力掌握と粛清
曹爽らが降伏すると、司馬懿は彼らを軟禁し、監視下に置きます。しかし4日後、突如として曹爽らに謀反の疑いありとの嫌疑をかけられ、曹爽の一族は処刑されてしまいます。
また、曹爽の腹心であった何晏、桓範らも全て処刑されました。何晏に至っては、この政変の裁判官を担当させられ、司馬懿は最後にこう言い放ちます…。
「罪人が一人足りぬようだ…。何晏、そなたの名を書き足すように。」
249年2月、司馬懿は曹芳より大幅な加増と九錫の礼を加えられ、もはや司馬懿こそが魏国内最大の権力者であることは明らかでした。
このクーデター以後、司馬懿を筆頭とした司馬一族による権勢は魏皇帝をも上回ることになり、孫の司馬炎(しばえん)による晋王朝樹立のキッカケとなるのでした。
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