古今東西、海賊に身を落とす者は枚挙に暇がなく、その前歴は様々です。
今回は中国、清の時代に大暴れした女海賊・鄭一嫂(てい いっそう)をご紹介。
果たして彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか。
遊女から海賊団の女将に

画像:大暴れする鄭一嫂 Public domain
鄭一嫂(てい いっそう)は1775年、現代の広東省で生まれました。
本名は石陽(せき よう)、幼名を香姑(こうこ)と言います。日本風に言えば「かおり(かおる)」と言ったところでしょうか。
※以下「鄭一嫂」で統一します。
鄭一嫂の実家は貧しかったようで、年頃に成長した彼女は広州市の遊郭に売られてしまいます。
しばらく遊女として働いていたところ、鄭一(てい いつ)率いる海賊団「紅旗幫(こうきほう。赤旗団)」の襲撃を受けてしまいました。
鄭一嫂は拉致されてしまい、1801年に鄭一と結婚させられてしまいます。
恐らく他の遊女たちも拉致されており、ひときわ心惹かれる美女だったのでしょう。
結婚を機に、彼女は鄭一嫂と呼ばれるようになりました。これは「鄭一の妻」あるいは「鄭さんの第一夫人」という意味です。
かくして、心ならずも結婚させられてしまった鄭一嫂。しかしここで泣いてばかりいても始まりません。
「こうなった以上、私は夫の事業に全身全霊を奉げましょう!」
何とも切り替えの早いことで、彼女は海賊団の女将として、追手の海賊稼業を全力サポート。
何とも肝の据わった女性でした。
内助の功か、あるいは夫と一緒に暴れ回ったのかは分かりませんが、1804年には紅旗幫を中華最強の海賊団に育て上げたのです。
夫の死で苦境に立たされる

画像:夫を喪い、苦境に立たされる鄭一嫂 草の実堂作成(AI)
しかし1807年11月16日、夫の鄭一が越南(ベトナム)で亡くなってしまいます。
戦死したのか、それとも病死したのかも知れません。どのみちロクな死に方はしなかったでしょう。
鄭一というカリスマを喪ったことにより、紅旗幫は空中分解。
それまで従っていた有力な海賊たちが「我こそは後継者なり!」と勝手に暴れ始めてしまいました。
「冗談じゃない!夫が率いてきた海賊団は、妻である私が受け継ぐんだ!」
鄭一嫂は権力を奪還し、亡き夫に代わる権威を確立するために奮闘します。
しかし周囲の者たちは、女性の首領をなかなか認めようとはしません。
「お前なんか、夫の威を借る狐じゃないか!」
「娼婦上がりなら娼婦らしく、男に媚びでも売ってろ!」
……そこまで言われたかはともかく、なかなか一筋縄では従ってくれず、改めて夫の遺徳を痛感したことでしょう。
なんて感心していても事態は打開できません。
そこで鄭一嫂は、力づくで従える方針から一転、各勢力との関係強化に努めました。
亡き夫のように集権的な存在ではなく、海賊連合の中で盟主的存在としてリーダーシップをとろうとしたのかも知れません。
現実的な対応ではありましたが、それでも彼女に対する周囲の目は厳しかったようです。
張保との再婚、その後

画像:海賊団を率いる張保仔の雄姿 Public domain
どこまで行っても、自分が女性である限り海賊団の首領として認められることはない…
そう悟った鄭一嫂は、亡き夫の甥に支持を求めると共に、有能な手下であった張保(ちょう ほう。張保仔)と結婚しました。
この張保はもともと漁師の子で、15歳の時に紅旗幫の襲撃を受けて拉致され、以来海賊として活動していたのです。
鄭一嫂も拉致されて海賊の妻となった身ですから、通じ合うところがあったのかも知れません。
かくして鄭一・鄭一嫂の後継者となった張保は、紅旗幫を率いて大暴れ。
その実力が認められ、かつて離反していた者たちも、次第に戻ってきました。
張保は自身が貧しかった経験から、奪いとったものを貧しい者たちに気前よく分け与え、そのため義賊として人気があったようです。
しかしその活躍は長く続かず、1810年に紅旗幫は官軍の「招安」を受けて解散します。
招安とは恩赦の一種で、手に負えない賊徒を官軍に迎え入れるものでした。
この時に官軍に編入された海賊は、女子供を合わせて17,318名。ほか船舶226隻・大砲1,315門・武器2,798点を保有していたと言います。
まるで都市一つぶんの大船団が、海上を駆け回っていたようなものでしょう。
以後は武官として取り立てられた張保と鄭一嫂。
しかし、後夫の張保は1822年に37歳の若さで世を去ってしまいます。
一方の鄭一嫂は、アヘン戦争(1840~1842年)で参謀を務めるなど奮戦しました。
敗戦後は武官を辞してポルトガル領マカオに移住、賭博場の経営や塩商いで財産を築いたとされています。
そして1844年にマカオで亡くなりました。享年70。
鄭一嫂の子供たち

画像:海軍武官として活躍した鄭一嫂(イメージ)草の実堂作成(AI)
今回は遊女から海賊となり、武官そして事業家として活躍した女傑・鄭一嫂の生涯をたどってきました。なかなか波乱万丈の人生だったのではないでしょうか。
そんな彼女は、先夫の鄭一と後夫の張保それぞれとの間に子供をもうけていました。
【鄭一との子供】鄭英石(えいせき)、鄭雄石(ゆうせき)
【張保との子供】張玉麟(ぎょくりん)、娘(実名不詳)
また一説には、鄭一が張保の才覚を見込んで養子にしたとも言われています。
その場合、張保は鄭一嫂の夫でありながら養子でもあるという、実に複雑な関係だったとも言えるでしょう。
二人の子供たちがどのような人物に成長し、どのような生涯を送ったのかについても興味深いところです。
改めて紹介できたらと思います。
参考 : 袁永綸『靖海氛記』他
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
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