洪秀全と太平天国

画像 : 太平天国の乱 public domain
19世紀半ばの中国では、清王朝の支配に対する不満が各地で高まっていた。
アヘン戦争後の経済混乱に加え、重い増税や銀の海外流出、農村の困窮などが重なり、社会全体が不安定になっていた。
こうした状況下で登場したのが、広東出身の宗教家・洪秀全(こうしゅうぜん)である。
洪秀全は、独自に解釈したキリスト教思想を基盤に「拝上帝会(はいじょうていかい)」を結成し、やがて宗教結社から大規模な反乱組織へと発展させた。
1851年、広西省で蜂起して「太平天国」を建国し、清王朝との全面戦争が始まることとなる。
太平天国が掲げた最大の敵は、当時の支配者である満洲人であった。
洪秀全は檄文の中で清王朝に対して「妖胡を滅せよ」「満洲妖を斬るべし」と繰り返し呼びかけ、満洲人虐殺政策(屠満政策)を推し進めた。※以降、屠満(とまん)政策と記す。
この思想は単なる政治的対立ではなく、宗教的・民族的な要素を強く含んでおり、満洲人そのものを排除する方向へと進んでいったのである。
洪秀全とはどんな人物だったのか

画像 : 洪 秀全(こう しゅうぜん)1860年頃に描かれた肖像画 public domain
洪秀全(1814年-1864年)は、広東省花県(現・広州市花都区)の客家(はっか)系農民の家に生まれた。
客家とは中国南部に住む漢民族の一派で、移住を繰り返して形成された集団である。
幼少期から科挙による立身出世を志したが、四度受験してすべて失敗した。この挫折は洪の思想形成に大きな影響を与えたとされる。
1843年、洪は病中に「神の啓示」を受けたと主張し、自らを「天父上帝の次子」「天兄イエスの弟」と位置づける独自の宗教観を築いた。
この頃、広州のキリスト教伝道士・梁発が著した『勧世良言』に出会ったことで、洪はキリスト教的要素を取り入れ、偶像崇拝を否定し、儒仏道を「妖術」として排斥する思想を形成していったのである。
こうした理念に基づき、洪は宗教結社「拝上帝会」を設立した。
この会では、飲酒・賭博・売春・纏足を禁じ、厳格な規律を敷いたため、社会的に抑圧されていた農民や客家人を中心に支持を集めた。
やがて信徒は武装化し、1851年、広西省金田村で挙兵して「太平天国」を建国、洪は「天王」として政教一致体制を築くに至る。
こうして彼のもとで太平天国は、清朝打倒を掲げた大規模な戦争へと突き進んでいったのである。
南京での大量虐殺と「論功行賞」制度

画像 : 天王・洪秀全の玉座(南京の洪秀全記念館) KongFu Wang CC BY-SA 2.0
1853年3月、太平軍は清朝の重鎮であった江寧城(現在の南京)を攻略し、ここを「天京」と改称して太平天国の首都とした。
この南京攻略は、太平天国の勢力拡大における大きな転機となったが、同時に苛烈な大量虐殺の引き金ともなった。
太平軍は満洲人の支配階級である「旗人」の屋敷を一軒ずつ調べ上げ、年齢や性別を問わず捕らえた者を処刑した。
これは、洪秀全が掲げた「斬妖滅胡」というスローガンに基づくもので、満洲人虐殺政策(屠満政策)へとつながっていった。
さらにこれは単なる報復ではなく、制度として奨励されていた点が特徴的である。
太平天国は「論功行賞」の仕組みを導入し、満洲人を殺害した人数に応じて功績を認定し、報奨金や昇進を与えたとされる。
南京攻略後の記録では、「旗人を一人捕らえし者には銀五両を与う」とする通達が確認されており、事実上の報奨金制度が虐殺を助長したとみられる。
この南京での大量虐殺は、当時の外国人宣教師や清朝側の記録にも一致して記されており、規模の大きさは歴史的にほぼ確定的とされている。
一方で、洪秀全が直接指示したのか、現場指揮官の判断によるものかについては議論が続いている。
満洲人はどれほど粛清されたのか

画像 : 太平天国全盛期の勢力範囲図 M.Bitton CC BY 4.0
このように太平天国は、満洲人を「外来の異族」と位置づけ、清朝から中華を奪還することを宗教的使命として、徹底的な排除政策を行った。
南京以外の地域でも、太平軍の進軍に合わせて旗人を中心とした満洲人社会がしばしば標的となった。
たとえば、江蘇省揚州では1853年から1856年にかけて、複数回にわたり大量虐殺が行われた。
犠牲者数については諸説があり、研究者によって大きく推定が分かれている。
1853年の南京攻略時には、城内に住んでいた旗人(八旗兵とその家族)約3,000〜7,000人が虐殺されたと複数の史料に記されている。また同年の揚州でも約2,000〜4,000人規模の旗人虐殺が報告されている。
さらに太平軍の北伐時には、河北・山東方面で清軍八旗兵が大規模に壊滅し、数万人単位の損失があったとされる。
これに加え、江蘇・安徽・江西など各地の旗人集住地でも、虐殺が断続的に発生したことが一次史料で確認できる。
これらの記録を総合すると、太平天国期の戦乱で旗人を中心に約30万〜50万人規模の満洲人が戦乱期に命を落としたとされる。ただし、当時の人口統計は不完全であり、正確な数字を確定することは困難であるものの、数十万単位の人口損失があったことは確かとみられている。
一方で、屠満政策が全国で一律に実施されたわけではなかったことも指摘されている。
湖南や広西などでは清軍八旗兵の多くが漢族出身であったため、見た目や言語で満洲人と漢人を厳密に識別するのが難しく、政策の徹底度には地域差があった。
また、一部の地方では満洲人女性や子供を、奴隷や下働きとして生かした例も報告されている。
屠満政策がもたらした影響と歴史的評価

画像 : 洪秀全と拝上帝会が蜂起を開始した場所 金田蜂起遺址 STW932
CC BY-SA 4.0
このように太平天国の屠満政策は、清朝の軍事体制と満洲人社会に大きな打撃を与えた。
しかし同時に、この過激な方針は漢族を含む住民の反発も招き、太平天国の統治を不安定にする要因となった。
その影響は国外にも及んでいる。
南京攻略後、イギリスやフランスは太平天国と接触を試みたが、過激な宗教政策や大規模虐殺を知ると態度を変え、最終的には清朝を支援する立場を取った。
後世の評価は大きく分かれる。
国民党の孫文や蔣介石は太平天国を「反清民族革命」の先駆として高く評価し、中国共産党も「農民革命」として肯定的に位置づけた。
一方で、現代の研究者はこうしたイデオロギー的評価とは距離を置き、犠牲者数についても慎重な立場を取っている。
かつては太平天国の乱による死者数を「5,000万〜7,000万人規模」とする説も流布していたが、現在では、屠満政策による満洲人の犠牲者は約30万〜50万人程度にとどまり、戦乱全体の犠牲者もおおよそ2,000万人前後と考えられている。
このように、屠満政策は太平天国の象徴的な特徴であり、清朝崩壊を加速させた要因の一つであることは間違いない。
しかし、その過激さが太平天国を国内外で孤立させたのも事実である。
この相反する影響こそが、太平天国史をめぐる評価が分かれる理由といえるだろう。
参考 : 『清史稿・咸豊朝実録』『太平天国起义记』『賊情匯纂』他
文 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。