
画像 : 1900年の紫禁城、景山からの神武門の眺め public domain
20世紀初頭、中国は激動の時代を迎えていた。
辛亥革命によって清朝は滅び、1912年には中華民国が誕生する。
しかし、北京の紫禁城だけは別世界だった。
優待条件によって皇室の生活は維持され、宮殿の奥では依然として、旧時代の作法と序列が息づいていた。
その内部では、日常の一挙手一投足にまで細かな規定があった。
食卓の高さ、座る位置、歩く歩幅に至るまで厳しく決められ、そこに仕える宮女や太監(宦官)は、その作法を体に染み込ませるようにして暮らしていた。
紫禁城は豪奢であると同時に、息苦しいほど管理された世界だった。
その中心にいたのが、ラストエンペラーとして知られる、溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)である。

画像 : 溥儀と手を取り合う婉容(えんよう) public domain
婉容は、近代的な教育を受けながらも、同時に旧来の伝統や厳格な作法を背負わされた皇后だった。
そんな彼女の暮らしを間近で見ていたのが、最後の宦官として知られる孫耀庭(そん ようてい)である。
最後の宦官・孫耀庭
孫耀庭(そん ようてい、1902〜1996)は、中国史最後の宦官として知られる。

画像 : 孫耀庭(そん ようてい)public domain
清朝末期、天津市静海県西双塘村の貧しい農家に生まれた彼は、のちに紫禁城で婉容に仕える太監(宦官)となり、壮絶な宮廷生活を体験した人物である。
孫耀庭は四人兄弟の次男として育ち、家族はわずかな畑で暮らしを立てていたが、生活は常に困窮していた。
父は村の私塾で読み書きを教え、母は近くの学堂で炊事を手伝ったものの、日々の食事にも事欠くような生活だったという。幼い頃から、野草や木の実を摘んで飢えをしのぐことも珍しくなかった。
そんな少年の心を強く揺さぶったのが、村の出身である著名な大太監「小徳張(しょうとくちょう)」の存在だった。
ある日、彼が豪華な衣装で里帰りすると、村人はもちろん、地元役人までもが深々と頭を下げて迎えた。
この光景は貧しい少年にとっては衝撃であり、「宦官になれば家族を救えるかもしれない」という思いが芽生えた。
そして、暮らしはさらに過酷な状況となった。
辛亥革命前後、家族は田畑を失い、父は冤罪で一時投獄され、母は路上で物乞いをするほど生活は困窮したのである。
生き延びるため、家族は苦渋の決断を下す。
高額な費用を払って専門の「净身師(去勢師)」を雇う余裕もなく、1911年、父は自ら息子を去勢したのだ。
極めて原始的な方法で行われたこの手術は危険を伴い、孫耀庭は一時、意識不明となるが、奇跡的に生還する。
手術の直後、清王朝は滅亡し、皇帝・溥儀が退位した。
宮廷制度は大きく変わったものの、紫禁城の内部では依然として太監(宦官)が必要とされ、少年の夢は消えなかった。

画像 : 清代の太監(宦官)イメージ public domain
親戚のつてを頼り、1916年、孫耀庭は原醇親王府(清の皇族・醇親王家の本邸)で、太監見習いとして働き始める。
最初は糞桶を担ぎ、廊下を磨く下働きだったが、几帳面で気の利く性格が評価され、やがて紫禁城入りを許された。
1917年、15歳で紫禁城の門をくぐった孫耀庭は、端康皇太妃(溥儀の祖母世代にあたる高位の后妃)に仕える小太監として、本格的な宮廷生活を始めることになる。
のちに「中国最後の宦官」と呼ばれる彼は、晩年に紫禁城での記憶を語り残した。
これらの証言は、賈英華『末代太監 孫耀庭伝』などに詳しく記録されている。
紫禁城の入浴儀式

画像 : 紫禁城に残る婉容皇后専用の浴槽(1922年〜1925年頃撮影)public domain
婉容皇后の入浴は、紫禁城の中でも特に厳密な作法が定められた儀式だった。
場所は、婉容が暮らす儲秀宮(ちょしゅうきゅう)の一室。
中央には大きな白磁の浴槽が据えられ、湯温の管理から道具の配置に至るまで細かく決められていた。
婉容は浴室に入ると、衣を脱ぎ、大きな浴槽に静かに腰掛ける。
しかし、そこから先は一切手を動かさない。身体を洗うことも、湯をかけることも、髪を整えることすらしなかった。
両脇に立つ宮女二人が、全身の洗浄から垢すり、爪の手入れまでを分担して行った。
婉容はまるで彫像のように微動だにせず、視線すらほとんど動かさなかったという。

画像 : 婉容(えんよう)皇后の肖像写真 public domain
太監である孫耀庭の役目は、浴用の水やタオル、着替えを用意し、必要に応じて宮女を補助することだった。
だが、彼らには厳格な決まりがあった。決して皇后の身体を直視してはならない。
常に視線は床に落とし、少しでも逸らしたと見なされれば杖で打たれる危険があった。
浴槽も、入浴後は宮女が隅々まで磨き上げ、わずかな水垢さえ許されなかった。
もし汚れが残っていれば、その場でやり直しを命じられ、ときには罰を受けることもあったという。
この一連の作法は、清朝以来の宮廷文化を象徴していた。
皇后自身がほとんど動かず、周囲がすべてを整えることで、彼女の「尊厳」を演出する。
だが、その場にいる太監や宮女にとっては、極端な緊張を強いられる時間だった。
孫耀庭が語る「屈辱」とは

画像 : 屈辱を感じる孫耀庭(そんようてい)イメージ 草の実堂作成(AI)
孫耀庭は晩年の回想で、婉容皇后の入浴に立ち会う時間を「最も耐え難い屈辱の一つだった」と語っている。
理由は、単に厳しい作法や罰の恐怖だけではなかった。
婉容皇后は入浴時、全身をさらしたまま微動だにせず、太監や宮女の前で一切の恥じらいを見せなかったという。
宮女たちが身体を拭き、髪を整える間、孫耀庭は視線を下げたまま、すぐそばに控えている。
しかし、皇后はそれを当然とするかのように、彼の存在をまるで空気のように扱った。
孫耀庭は、後年こう語っている。
「我々は、男であって男ではない。主子(皇后さま)の前では、まるで人間ではないようだった。」
紫禁城内の社会では、去勢された者は生理的に“安全”と見なされ、どれだけ女性のそばに立ち会っても恥じらいを求められることはなかった。
婉容にとっても、それは当然のことだったのかもしれない。
だが、若い頃の孫耀庭にとっては、この「透明人間のように扱われる」感覚こそが屈辱だったという。
彼は浴室で常に膝を折り、視線を床に落としていたが、耳には水音や宮女の動作、そして婉容の静かな息遣いが生々しく響いた。
視線を床に落とし、触れられない状況でありながら、ふとした拍子にすべてが見えてしまう距離でもある。
この矛盾が、彼をさらに追い詰めた。
「主子の肌は白く、まるで玉のようだった。だが、それを直視することは許されない。それでも視界には入ってくる。あれは、罰よりも苦しい時間だった。」
こうした心理的重圧は、宮中で過ごした長い年月の中でも、特に鮮明な記憶として晩年まで彼の心に残り続けたという。
紫禁城の異様な日常

画像 : 紫禁城で撮影された婉容と溥儀 Public domain
このように紫禁城での日々は、豪華さとは裏腹に、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた。
皇帝や皇后を取り巻く数百人の太監や宮女たちは、厳格な序列と規律に縛られ、互いの小さな動きや表情までも監視し合う世界だった。
また、情報や噂は、紫禁城の中で特に大きな価値を持っていた。
皇帝と皇后の関係だけでなく、妃たちの対立や宮女との確執、さらには宦官社会の権力争いまで、さまざまな噂が絶えなかった。
そうした情報は密かにやりとりされ、時には生き残るための重要な手段にもなった。
婉容皇后の身辺に仕える孫耀庭も、常にこうした噂話の渦中にいた。
宮女との親しい関係が囁かれることもあれば、宦官同士の微妙な駆け引きや密かな連帯が話題にのぼることもあった。
孫耀庭は晩年、紫禁城での日常を「華やかさと悪夢が同居する世界だった」と表現している。
彼の言葉は、豪奢な宮殿の奥に潜む緊張と屈辱を、今も鮮やかに映し出している。
参考 : 『末代太監孫耀庭伝』賈英華 『我的前半生』愛新覚羅溥儀 他
文 / 草の実堂編集部
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