日本にあった奴隷制度と聞くと、多くの人が「穢多・非人」を思い浮かべるかもしれません。
しかし20世紀まで続いていた驚くべき風習があります。
長野県の山奥で何百年も実在した「おじろく・おばさ」という制度です。
今回の記事では「おじろく・おばさ」について紹介したいと思います。
「おじろく・おばさ」が生まれた背景とは?
人類の歴史は、人口増加との闘いでもありました。
人口が増えれば、その人数分の食料を生産しなければなりません。
とくに耕地面積が少ない山奥に住む人々は、農作物の収穫量(生産量)が少ないため、人口増加には最新の注意を払う必要がありました。
このような背景から、現在の長野県南部に位置した天龍村(現在の下伊那郡天龍村)には、人口を抑制するための特殊な家族制度がありました。
その家族制度が「おじろく・おばさ」なのです。
長男だけが結婚して家を継ぎますが、長男以下の兄弟姉妹は、他の家に嫁いだり養子になったりしない限り、結婚もできず外出すらも禁止されます。
長男(戸主)のために一生働かなければならず、お金ももらえません。
男性は「おじろく」女性は「おばさ」と呼ばれ、長男の妻子よりも下の扱いを受けます。
戸籍にも「厄介」と書かれて、家族や社会と断絶した状況に置かれます。村の人々との関わりは一切なく、村のお祭りなどイベントにも参加できません。
もちろん現在の天龍村周辺では、このような非人道的な風習は存在しません。
しかし近代化が始まった明治5年の時点において、人口2000人の村のなかで190人、戦後の昭和40年代にも3人の「おじろく・おばさ」が生きていたようです。
昭和40年は1965年になるため、すでに20世紀も半ばに差し掛かっています。
ある医師が調査に乗り出す
そんな「おじろく・おばさ」の実態を探るべく、ある1人の医者が調査に乗り出しました。
精神科医の近藤廉治氏です。
当時の天龍村で生活していた男2人女1人の「おじろく・おばさ」を中心に取材し、彼らの精神状態を診断した報告書を作成しました。
ただ「おじろく・おばさ」にいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行いました。
このアミタール面接は麻酔薬を用いた、精神分析における手法の1つとして用いられています。患者を眠らせないようにアミタールを徐々に注射し、患者と面接するための治療法です。
患者が持つ緊張、不安、抵抗などの意識的な抑制を排除し、医師と患者のあいだでコミュニケーションを生み出すことによって、病気の種類などを診断するための分析を行います。患者が心の中に抑圧された体験や葛藤を表出することが期待でき、今後の治療における判断材料となります。
心を閉ざしていた「おじろく・おばさ」は、会話をすることができないレベルにまで落ち込んでいたのです。このような治療を試みることで、ようやくコミュニケーションができるようになっていきます。
耕地面積が少ない長野県の一部地域では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がなく、それらは「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ長男の下男として扱われた。戸籍の続柄は「厄介」。全国的にも次男以下の扱いは似たようなもので、彼らの下剋上は戦後の集団就職を待たねばならなかった。 pic.twitter.com/06ebCsMfeU
— ぽきお (@pk_kroger) February 19, 2021
衝撃のインタビュー内容
近藤廉治氏は自らの著書において、インタビュー内容を紹介しています。
ある女性(おばさ)のインタビュー内容を抜粋し、要約してみます。
彼女は幼少期におとなしく、小学校の成績は上位だった。24歳頃までは隣家で養蚕の手伝いをしてたが、そのあとは行かなくなり、27歳あたりからますます無口になっていった。
検査時に高血圧が認められたが、ほかに身体的異常はなかった。彼女はアミタール面接を4回受け、表情が和らぎ、少しずつ話すようになっていった。
彼女は生年月日を知っており、学校は特別好きでもなく、友人も少しいた。彼女は百姓の手伝いや養蚕をしていましたが、ほかの家へ行くのは嫌いだった。
彼女にとって面白いことや楽しい思い出もなかった。彼女は電車を見たことがなく、自動車も遠くで見ただけ。彼女は自分が馬鹿だと思っており、字も読めず話もできないと劣等感を持っていた。
彼女の姉が4年前に食道癌で亡くなった時も、彼女は表情を変えず涙も出さず、青春時代から感情を表現することもなく口数も減っていった。
アミタールの効果が消えると不機嫌になり、質問に答えなくなる。
また近藤氏は、天龍村に住む老人にも取材しています。こちらも要約します。
彼ら(おじろくおばさ)は結婚せず、一生家族のために働いて不平を言わなかった。
子供の頃は普通だったが、20歳過ぎから不愛想になり、挨拶しても見向きもしないで勝手に仕事をしている人もいた。
おじろくがおばさのところへ夜這いに行ったという話もあったが、こういうことは稀であった。
おそらく多くの者は童貞、処女で一生を送っていた。怠け者はおらず、よく働いていた。
近藤氏は取材に先立ち「おじろく・おばさ」に対する推論をしていました。
その推論は2つありました。
天龍村一帯はもともと遺伝による精神障害が多い集落であると仮定し、そのような人々が「おじろく・おばさ」になるのではないかという説。
もう1つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果として無気力な者だけが村に残ったという説です。
しかし実際の取材によって、この2つの推論はまったくの間違いでした。
長年の慣習に縛られた環境的(外部的)要因によって、人格が変化してしまったのではないかという仮説に至ったのです。
「子ども時代は普通で、20代に入ってから性格が変わった」という村の老人たちによる証言も、今回の仮説を裏付けています。
常識という呪縛
天龍村に住む人々は「おじろく・おばさ」を当然(常識)だと考えていたので、別に可哀想に思うこともありませんでした。村全体が昔の慣習に支配されていたのです。
村全体から差別を受ける環境だったため、ある意味で洗脳に近い状況だったかもしれません。社会常識という“呪縛”は強力で、私たちの無意識に入り込むものなのでしょう。
今の私たちからすると「おじろく・おばさ」の風習は非人道的にもみえますが、天龍村を存続させるため人口を抑制することは、やむを得ない部分もあったのかもしれません。
かつて日本には「間引き」がありました。生まれたばかりの子どもを殺してしまうことです。
そして「おじろく・おばさ」とは、ある意味“心”を殺すことで人口を制限しようとしました。
どちらもあってはならない制度ですが、どちらかを選択しなくてはいけないとしたら…。
深く考え込んでしまうのではないでしょうか。
参考文献:近藤廉治(1975)『開放病棟―精神科医の苦闘』合同出版
一部の村にあった話ですね東北地方の一部の地域に姨捨山があったレベルの話しやね
イメージ写真が日本人ではないのが気持ち悪い
初めて知りました。天龍村だけでなく、ひょっとしたらもっと多くの場所でも、行われていたのかもと想像させられる報告です。
いやいや江戸時代の家族制度って全国的に全部そうでしょ?
武士だって次男は家を継げず、家族も持てない。
農民は新田開発できない限り家族を持てない。
丁稚奉公の人間も独立しない限り家族は持てない。
そうやって人口抑制してたんだよ。
穢多、非人が「奴隷制度」?はて