古事記や日本書紀に触れたことがある人なら、月読命(ツクヨミノミコト)を知らない人はいないだろう。
月読命は日本神話において月を象徴する、八百万の神の中でもっとも貴いとされる3柱のうちの1柱だ。
しかし月読命は、主神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)の弟(もしくは妹)にして、多くの伝説が語り継がれている建速須佐之男命(タケハヤ スサノオノミコト)の兄(もしくは姉)でありながら、神話の中にはほとんど登場しない謎多き神である。
太陽の対となる月の化身の神でありながら、男神か女神かもはっきりしていない。
なぜ月読命は、こんなにも影が薄いのだろうか。
今回は月の神「月読命」について、詳しく掘り下げていきたい。
月読命について
月読命は「ツクヨミノミコト」、もしくは「ツクヨミ」や「ツキヨミ」と称される月を神格化した神で、「月夜見尊」「月弓尊」とも表記される。
古事記では、父神である伊邪那岐命が、妻である伊邪那美命に追われて黄泉から逃げ帰った際、黄泉の穢れを落とすために禊ぎを行った伊邪那岐命の右目から生まれたとされる神で、その時に左目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた建速須佐之男命とともに、三貴子(みはしらのうずのみこ)と称される重要な神だ。
伊邪那岐命は自らの顔面から生まれた3柱の貴い神に対して、天照大御神には神々の国である高天原の統治を、建速須佐之男命には海原の統治を、そして月読命には夜之食国(よるのおすくに)の統治を命じた。
しかし月読命は夜之食国だけでなく、建速須佐之男命が任されたはずの海原を統治する神ともいわれる。
それというのも、建速須佐之男命が任された役割を放棄したために地上の国は荒れ果ててしまい、最終的に根堅州国に追放されてしまったためだ。
月読命と建速須佐之男命の支配領域の重複の理由は、天照大御神と月読命の神話に後から建速須佐之男命が追加された説や、月読命と建速須佐之男命が同一神とする説などがあるが、どの説が正しいのかは未だはっきりしていない。
小難しいことを考えずに家族間の出来事に当てはめてみれば、弟のわがままのツケが月読命に回ってきたようにも思えて、月読命がどうも不憫に感じてしまう。
太陽と月の別離
日本書紀の第五段第十一の書には、月読命にまつわる誕生時以外の唯一の有名なエピソードが記されている。日本書紀では神々の名前の表記が古事記とは異なるが、ややこしくなるので古事記における名称で解説しよう。
月読命はある日、姉の天照大御神の命を受け、地上にいる保食神(うけもちがみ)に会いに行くことになる。保食神は穀物を司る神で、古事記では同様の話に大気都比売神(オホゲツヒメ)として登場する。
保食神は貴い神である月読命をもてなすために、ご馳走を用意しようと考えた。しかしこのご馳走の用意の仕方が問題だった。
穀物や農産物の神である保食神は料理をするのではなく、口から吐き出した食物を月読命にふるまおうとした。その様子を見た月読命は「汚らわしい」と憤慨し、保食神を斬り殺してしまったのだ。
哀れな保食神の死体からは、蚕や牛馬、五穀が生まれ、この五穀の種は日本人の主食である米や粟などの穀物の起源となったが、やがて月読命の凶行は天照大御神の知る所となる。
天照大御神は月読命の行いに大いに腹を立てて、月読命を「悪しき神だ」と罵り、「もう二度と会いたくない」とまで嫌うようになった。
そのことにより昼と夜が分かれ、さらには月が太陽と見かけ上並ぶ時は月が見えなくなり(新月)、もっとも太陽から離れた時に満月になるとされた。
古事記にも同様のエピソードがあるが、大気都比売神を殺すのは月読命ではなく建速須佐之男命だ。
建速須佐之男命はその後に八岐大蛇の征伐などで名誉回復を果たすが、月読命は善良な神を殺して姉に嫌われっぱなしのまま、以降特に活躍することはないのだ。
月読命を祀る神社
日本書紀においては、姉に嫌われた経緯のみ唯一の活躍(?)エピソードとして書かれ、古事記に至っては誕生時の話にしか登場しない月読命だが、祀られている神社はある。
代表的な宮は伊勢神宮内宮の別宮である月讀宮や、外宮の別宮である月夜見宮、山形県の月山の頂上に鎮座する月山神社だ。
京都の松尾大社の摂社にも月讀神社があるが、こちらは名前こそ同じ神が祀られているものの、祭神は高皇産霊命を祖に持つ月の神とされている。また、他神社に主祭神として祀られている同系統の月読尊は、伊邪那岐命から生まれた月読命とは異なる神格を持つといわれている。
姉と弟が数多くの有名神社に当然のごとく主祭神として祀られているのに、三貴子の1柱であるはずの月読命は、別の神と混同されるほど存在感がないのである。
なぜ月読命はこんなにも影が薄いのか
記紀においての月読命の活躍の少なさや存在感の薄さの理由としては、いくつかの説が考えられている。
そのうちの代表的な説を紹介しよう。
・月読命と建速須佐之男命が、元々は同一の神だったから
・何もしないことが重要な存在意義である「無為の神」だから
・政治的意図により後から日本神話に追加された神だから
・夜見=黄泉という、生者が足を踏み入れるべきでない死者の国の神だから
・政治的意図によりあえてエピソードが削られたから
・天照大御神と建速須佐之男命という対照的な神の間で、バランスをとる存在だから
以上のような理由から、記紀においての月読命の登場回数は少なく、存在感もないとされている。
どの説が正しいのかさえ未だ不明瞭な神、それが月読命なのだ。
神話においては存在感のない月読命だが、民衆の間では古来より崇敬されていた。
その昔、太陰暦を用いていた日本では、月を読むことは命の要である農耕に欠かせないものであったし、穀物の種が生まれるきっかけを作った月読命は、五穀豊穣をもたらす農耕神として崇められた。
また「月=ツキ」を呼ぶとして開運の神として、潮の満ち引きを操る海神という側面から航海の安全や漁業の神として、月を読む占いの神として、父神の右目から生まれたことから眼病平癒の神としても、人々から親しまれてきたのだ。
月読命は偉大な神であるはずなのに、目立たず出しゃばらず、夜空に浮かぶ月のようにただ静かに存在している。
存在感がないからこその謎多き神としての存在感、それこそが現代における月読命の魅力なのだろう。
参考文献
戸矢学 著『ツクヨミ 秘された神』
福永武彦 翻訳『現代語訳 日本書紀 (河出文庫) 』
かみゆ歴史編集部 編集 『マンガ 面白いほどよくわかる!古事記』
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