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「キトラ古墳」に葬られた人物は誰なのか? 〜“真の主”を副葬品から読み解く

キトラ古墳」は、奈良県明日香村に所在する古墳である。

1972年に極彩色壁画が確認された「高松塚古墳」と並び、1983年に石室内のファイバースコープ調査で同様の壁画が見つかったことで注目を集めた。

現在までに、こうした本格的な彩色壁画が確認されている古墳は、この2基のみである。

壁画の存在が明らかになると、考古学界だけでなく一般社会からも大きな関心が寄せられた。

本稿では、「キトラ古墳」の構造や壁画の特徴、そして被葬者の可能性について考察する。

「キトラ古墳」の墳丘と石室構造

画像:キトラ古墳(撮影:高野晃彰)

「キトラ古墳」は、安倍山から東西に延びる南斜面を削平した平坦地に築造されている。

墳丘は、2~3cmの厚さに積んだ土を搗き固める版築工法を施し、テラス状の下段をもつ二段築盛の円墳である。

その規模は、下段の直径が13.8m、高さ0.9m、上段の直径が9.4m、高さ2.4m。同じ壁画古墳の「高松塚古墳」の直径20m、高さ9.5mと比べると、半分までとはいかないが小規模であることがわかる。

築造時期は、7世紀(600年代)末~8世紀(700年代)初頭頃で、「高松塚古墳」よりも先行して造られた。

しかし、その差はせいぜい10年前後と考えられている。

画像:石槨の原寸大レプリカ キトラ古墳壁画体験館(撮影:高野晃彰)

埋葬施設は、二上山の凝灰岩の切石を組み上げた横口式石槨で、墳丘中央に設けられていた。

石槨には直方体に加工した切石が使われ、天井石には約17cmの屋根形のくり込みを設ける。その内容は、床石4、扉石1、奥壁2、天井石4、西側3、東側4の計18個を数える。

石槨内部の広さは奥行約2.4m、幅約1.0m、高さ約1.2mで、この点は「高松塚古墳」とほぼ同規模である。

石槨内の天井・側壁・床面の全面に厚さ数mmの漆喰が塗られ、その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれていた。

「キトラ古墳」に描かれた色彩壁画

画像:キトラ古墳の石槨に描かれた壁画(撮影:高野晃彰)

石槨内に描かれた壁画は、北壁に玄武・十二支、東壁に青龍・十二支、南壁に朱雀、西壁に白虎・十二支。
そして天井に天文図、日像・月像という構図になる。

玄武、青龍、朱雀、白虎の四神は、天の四方を司る神獣とされる。

玄武(北壁)は冬の季節を象徴し、色は黒があてられ、青龍(東壁)は春の季節を象徴し、青があてられる。

画像:キトラ古墳壁画体験館 四神の館の北壁・玄武(撮影:高野晃彰)

画像:キトラ古墳壁画体験館 四神の館の東壁・青龍(撮影:高野晃彰)

そして、朱雀(南壁)は夏の季節を象徴し、色は赤があてられ、白虎(西壁)は秋の季節を象徴し、白があてられる。

画像:キトラ古墳壁画体験館 四神の館の南壁・朱雀(撮影:高野晃彰)

画像:キトラ古墳壁画体験館 四神の館の西壁・白虎(撮影:高野晃彰)

四神の下には、動物の頭と人間の体で十二支を表した獣頭人身の十二支が描かれる。

北壁中央の子から時計回りに、方位に合わせて各壁に3体ずつ計12体が配置されていたと考えられるが、現在確認できるものは、子、丑、寅、午、戌、亥の6体である。

天井中央部には、「キトラ天文図」と称される天文図が描かれている。天井の東西にある斜面部分には、東側に金箔で日像が、西側には銀箔で月像が表現されている。

この天文図は、天の北極を中心とした円形の星図で、360個以上の星々が金箔であしらわれ、朱線によってそれらを結んだ中国の星座は、現在のところ74座が確認されている。

画像:キトラ古墳天文図トレース(奈良文化財研究所)

キトラ天文図の大きな特徴は、朱線で描かれた4つの大円である。

内側から順に「内規」「赤道」「外規」とされる3つの同心円に加え、北西にずれたもう一つの円は「黄道」を示す。

これらの構成から、観測地は北緯34度付近の中国・長安周辺と推定されており、本格的な中国式星図としては世界最古の例といわれる。

なお、北緯34度という緯度は「太陽の道(レイライン)」とも呼ばれ、神社をはじめ多くの聖地がこの線上に位置すると考えられている。この点もまた、尽きることのない興味をかき立てられるのではないだろうか。

「キトラ古墳」から出土した遺物

石槨内からは、被葬者が納められていた「木棺」の部材や飾金具、副葬品である「刀装具」「玉類」などが出土した。

「木棺」の部材として木質部が腐食し、内外面に塗った漆の層の幕だけになったものが見つかっている。断片の多くは黒漆を塗り重ねたもので、一部には水銀朱が塗られているものもある。

ここから分かることは、棺はいわゆる「漆塗木棺」で、棺の内面は朱で塗られていた。

画像:キトラ古墳出土漆塗木棺破片(国営飛鳥歴史公園 )

斉明天皇陵である牽牛子塚古墳から出土した、麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった「夾紵棺(きょうちょかん)」よりは、ランクが落ちるが最高級の柩と言っても差し支えないだろう。

この木棺に付属する金具に、金銅製飾金具1点と銅製釘隠5点、金銅製板状金具1点がある。

大刀に関連するものでは、金線で直線とS字文を象嵌した鉄地銀張金象嵌帯執金具や刀装具、鉄製の刀身の断片が見つかっていることから、銀製大刀と鉄製太刀の二振りの大刀が納められていた可能性が高いとされる。

画像:キトラ古墳出土銀製大刀金具(国営飛鳥歴史公園 )

また玉類では、直径8.5~9.5mmのほぼ球形で穿孔がある琥珀玉や、直径3~4mm程度のガラス小玉などがあり被葬者の枕の一部であった可能性がある。

画像:キトラ古墳出土玉類(国営飛鳥歴史公園 )

「キトラ古墳」の主な出土品は、2018年に重要文化財に指定された。

人骨片は、石槨内から約15点出土している。左右の上顎骨・右頬骨や犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯などがある。

いずれも重複する骨の部位がないことから、一人の遺骨の可能性が考えられ、40~60歳代の熟年男性の可能性が高いと考えられる。

「キトラ古墳」の被葬者は誰だ

では、最後にまとめとして「キトラ古墳」の被葬者について考えてみよう。

この古墳に葬られた人物は、横口式石槨、漆塗木棺、銀製と見られる大刀などの副葬品から、7世紀末から8世紀初頭にかけての天皇の皇子クラスに相当する人物であった可能性が濃厚である。

古墳の場所は、藤原京朱雀門と天武持統合葬陵(野口王墓古墳)を繋いだ延長線上の、いわゆる“聖なるライン(ゾーン)”に近い。

画像:天武天皇 public domain

そのことから、被葬者候補としては、天武天皇の皇子である高市皇子(第1皇子・696年没)、忍壁皇子(第4皇子・705年没)、長皇子(第7皇子・715年没)、弓削皇子(第9皇子・699年没)などが挙げられている。

しかし筆者は「キトラ古墳」の被葬者として、これら天武天皇の諸皇子ではなく、天智天皇の皇子である川島皇子(第2皇子・691年没)を強く推したい。

川島皇子といえば「キトラ古墳」から北西に約2kmの位置にある「マルコ山古墳」の有力な被葬者候補としても知られている。

画像:マルコ山古墳(撮影:高野晃彰)

「マルコ山古墳」は、その築造時期が7世紀末から8世紀初めにかけてであり、「キトラ古墳」とほぼ同時期であることに加え、埋葬施設として採用されている横口式石槨の構造も非常に類似している。

画像:マルコ山古墳石槨図(撮影:高野晃彰)

ただし、問題となるのは、その墳形が六角形という特異な形状である点だ。

7世紀末から8世紀初めは、古墳時代の終末期にあたるが、この時期の天皇陵は墳形が方墳から八角形墳へと移行している。

たとえば、飛鳥時代後半期の天皇陵には、第34代舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、第35・36代皇極・斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、第38代天智天皇陵(御廟野古墳)、第40・41代天武・持統天皇合葬陵(野口大墓古墳)、第42代文武天皇陵(中尾山古墳)があるが、これらはすべて八角形墳であり、御廟野古墳を除いて、いずれも奈良県の飛鳥地方に所在している。

このような状況の中で「マルコ山古墳」は飛鳥地方にある唯一の六角形墳であり、その点において極めて異例の存在といえる。

画像:持統天皇 public domain

川島皇子を「マルコ山古墳」の被葬者とする説の根拠の一つに、天武持統朝の皇太子・草壁皇子のライバルであった大津皇子を、その密告によって排除できたことに対する、持統天皇の評価があったとされる。

そしてその功績のゆえに、天皇陵である八角形墳に準ずる六角形の墳墓に葬られたという説もある。

しかしそうであるならば、六角形墳の被葬者は天皇に準ずる高い身分と考えるのが妥当であり、川島皇子よりもふさわしい人物が他にいるのではないだろうか。

天武朝における皇子たちの序列は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子の順であった。
686年に大津皇子が処刑され、689年に草壁皇子が薨去した後、持統朝において最も重きをなしたのは、太政大臣となった高市皇子であった。

さらに「マルコ山古墳」の被葬者を川島皇子とする有力なもう一つの根拠としては、柿本人麻呂が詠んだ挽歌によって、彼が越智野に葬られたことがうかがえる点が挙げられる。

ただし、越智野とは現在の奈良県高市郡高取町の北部から明日香村西部にかけての低丘陵地帯と考えられており、この範囲には「キトラ古墳」も含まれる。

画像:キトラ古墳(右下)とマルコ山古墳の位置関係(撮影:高野晃彰)

また「キトラ古墳」といえば、「高松塚古墳」と同様に極彩色の壁画が描かれていることで知られている。

そのため、被葬者は非常に高い身分の人物であると考えられがちである。

しかし、当時の最高権力者であった天武・持統天皇の合葬陵や、草壁皇子の真陵とされる束明神古墳には、壁画は描かれていない。

画像:天武持統合葬陵(撮影:高野晃彰)

そうであるならば、「キトラ古墳」や「高松塚古墳」のような、中国文化の強い影響を受けた壁画古墳の被葬者は、律令制度など中国を模範とした事業に深く関わった人物であったと考える方が自然であろう。

川島皇子は、忍壁皇子とともに国史編纂の大事業を主宰した人物であり、大宝律令の筆頭編纂者である忍壁皇子を補佐し、律令編纂にも関与していた可能性が高い。

「マルコ山古墳」が川島皇子の墳墓でないとすれば、越智野に葬られたという記録から見ても「キトラ古墳」こそが、川島皇子の墓として最もふさわしいといえる。

画像:キトラ古墳(撮影:高野晃彰)

その裏付けとして、「キトラ古墳」「マルコ山古墳」「高松塚古墳」の墳丘規模についても触れておきたい。

同時期に築造された古墳であれば、その規模は通常、被葬者の地位や功績に相応しいものとなる。「キトラ古墳」の墳丘は約14m、「マルコ山古墳」は約24m、「高松塚古墳」は約20mである。

すなわち、規模の順に並べると「マルコ山古墳」→「高松塚古墳」→「キトラ古墳」となる。

ややネタバレになってしまったが、「マルコ山古墳」と「高松塚古墳」の被葬者については、また別の機会に考察することとしたい。

ただ「キトラ古墳」については、最終的な官位が高市皇子を上回ることのなかった「川島皇子の墳墓」であると考えるのが妥当ではないだろうか。

※参考文献
小笠原好彦著 『検証 奈良の古代遺跡』 吉川弘文館刊
山本 忠尚著 『高松塚・キトラ古墳の謎』 吉川弘文館刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

高野晃彰

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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