石舞台古墳の南東に存在する都塚古墳
飛鳥時代前期の大権力者といえば、蘇我馬子の名が挙がることでしょう。
その馬子の墓は、奈良県明日香村島庄に所在する「石舞台古墳」というのが定説になっています。それは、同地が馬子の邸宅があった場所に築造されており、その巨大な横穴式石室の様式が、7世紀前半と考えられることによります。
一般に古墳の被葬者論は難しいものです。日本の墳墓は奈良時代にならないと被葬者の名前を記した墓誌などが埋葬されないこと。また、ほとんどの古墳が盗掘に遭い、副葬品・人骨などの遺物が余り残っていないことが大きな原因とされます。
しかし、古墳とは明らかに人を葬った施設であり、特に大きな古墳には、歴史に足跡を残した人物が眠っている可能性が高いので、歴史好きな人なら、被葬者を考察することに興味があるのではないでしょうか。
今回、紹介する「都塚古墳」は、馬子の墓と思われる「石舞台古墳」の東南400mの位置、南から伸びるゆるい尾根上にポツンと築造されている方墳です。地元では、元旦の朝、金の鶏が鳴くという言い伝えから「金鳥塚」とも呼ばれていました。
石室の発掘調査から6世紀後半と判明
1967(昭和42)年に、明日香村教育委員会と関西大学考古学研究所により横穴式石室内の発掘調査が行われました。
石室の全長は12.2m、遺体を納める玄室は、長さ5.3m・幅2.8m・高さ3.55m。羨道部は長さ6.9mで、石室の床面に暗きょ排水溝が設けられていました。
玄室内には、長さ2.36m・幅1.58m・高さ0.64mの家形石棺があります。石棺を覆う蓋石には大きな縄掛突起があり、石棺の周辺からは、鉄釘片や棺台とみられる石などが発見されました。このことから、木棺も安置されていたとの推測もできます。
この家形石棺の形態や出土した土器・須恵器などから「都塚古墳」の築造時期は、6世紀後半ないしは6世末とみなされました。
墳丘の調査で階段状の石積みが検出
「都塚古墳」は、墳丘内部の調査は終了したものの、墳丘そのものの調査は実施されていませんでした。そのため墳丘の形状は、外観から判断するしかなく、径30mほどの円墳、もしくは一辺28mほどの方墳と考えられていました。
そして、その墳丘について、2013・14(平成25・26)年に明日香村教育委員会と関西大学考古学研究所により発掘調査が実施され、思いがけない事実が判明したのです。この事実が「都塚古墳」に注目が集まるきっかけとなりました。
それは、東側斜面の東南隅で築造当初に築いた川原石による石積が三段の階段状に検出され、また墳丘頂部付近の発掘でも、四段をなす階段状の石積が見つかったのです。
墳丘の一段は、幅が約6mのテラス状をなす墳丘土と、幅が約1m・高さ30~60cmの石積により形成され、全体としてはピラミッドを思わせる階段状をなしていたと考えられます。そして、墳丘の規模は東西41m・南北42mの大型の方墳であることが判明したのです。
築造時期は、石室調査時と同様、6世紀後半ないしは6世末との見解が示されました。
都塚古墳に葬られている人物は?
墳丘の調査が終わると、新聞各社から被葬者を蘇我稲目と見なす報道が相次ぎました。稲目は、馬子の父で、蘇我氏の中で実在が確認できる最初の人物とされ、536年に、朝廷の最高位である大臣に任命されています。
稲目は、娘の堅塩姫と小姉君(ともに馬子の姉妹?)を29代欽明天皇の妃として、大王家の外戚となりました。欽明天皇と2人の娘からは、31代用明・32代崇峻・33代推古の3人が生まれ、大王の位についています。稲目は、朝廷の直轄地・屯倉の管理・経営を司り、渡来人たちを活用し朝廷経営を推進しました。
飛鳥前期の王統確立に尽力した稲目は、その後の蘇我家の勢力拡大に貢献した人物であり、馬子ー蝦夷ー入鹿と続く、蘇我本宗家はもとより、古代史族蘇我氏にとっては始祖的な人物でもあったのです。
「都塚古墳」を稲目の墳墓とする説を唱えるのは、発掘を担当した関西大学の米田文孝教授をはじめ、猪熊兼勝氏・千田稔氏などです。明日香の冬野川流域一帯が蘇我氏の支配地域であり、その本拠南端のこの地に蘇我氏の墓域が設けられたと考え、同古墳に用いられた高い技術力・規模の大きさから考えて、蘇我氏の有力者の墓に違いないという見解で共通しています。
一方で、「都塚古墳」の被葬者を稲目以外の蘇我氏有力者とする説も唱えられています。その代表的なものとして、河上邦彦氏による蘇我入鹿説、小笠原好彦氏による蘇我小姉君説などがあります。その根拠としては、稲目が没した570年当時はまだ有力者が前方後円墳に葬られていた時代であり、大臣の墳墓としては小規模であるという考えに基づくようです。
都塚古墳は稲目の墳墓なのか?
では、「都塚古墳」は蘇我稲目の墳墓なのでしょうか。
筆者の見解を述べさせてもらうと、蘇我稲目が6世後半にその本拠の南端に葬られ(都塚古墳)、続いて馬子が隣接する地に葬られた(石舞台古墳)という推測は十分に成り立つと考えられます。この2代の後、蘇我本宗家の権力が成熟期を迎えた蝦夷・入鹿の時代になると、その本拠地は南の甘樫丘付近に移動していきます。
稲目が前方後円墳に埋葬されたとすると、6世紀後半の築造と推定される「見瀬丸山古墳」が有力になります。しかし、同古墳は全長320mと同時期の古墳ではとび抜けて巨大であることを踏まえ、やはり大王墓と考えるのが妥当と思われます。そうなると「見瀬丸山古墳」は、多くの考古学者が推定する欽明天皇陵となるのではないでしょうか。
蘇我稲目は、確かに大臣として朝廷に重きをおきました。ただ、稲目の時代はまだ蘇我氏専制の時代ではなく、稲目と並ぶ朝廷首班の大連には、稲目と崇仏論争を繰り広げた物部尾興が健在でした。蘇我氏の権力が巨大化していくのは、馬子の時代を待たなければならなかったのです。その馬子の墳墓が「石舞台古墳」ならば「都塚古墳」が稲目の墳墓である可能性は高いと考えるのです。
しかし、6世紀後半築造と推定され、宮内庁より欽明陵に治定される前方古円墳の「平田梅山古墳」も十分に稲目の墳墓の可能性を有しています。従って「都塚古墳」=「蘇我稲目墓」という結論に至るには、決定的な考古学的資料と、多くの考察が必要だと思います。
稲目を事実上の始祖とする蘇我氏は、一般に大化の改新における乙巳の変で、完全に滅亡したかのように思われています。しかし、蘇我氏は飛鳥時代を通じて多くの人物が活躍します。
彼らの奥津城や足跡を残す史跡をこれからも紹介していきますので、どうぞお楽しみに。
※参考文献:
小笠原好彦著『検証 奈良の古代遺跡』吉川弘文館、2019年8月
千田稔著『古代飛鳥を歩く』中公新書、2016年4月
白石太一郎著『古墳とヤマト政権』文春新書、2019年9月
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