古代日本は、大陸(中国や朝鮮)の政治的動向に影響を受けながら、独自の国家を築いてきました。
今回の記事では、古代日本と大陸の関係、そして日本の政治変革、とくに「乙巳の変(いっしのへん : 大化の改新)」にどのような影響を与えたのかを探っていきます。
大陸(中国や朝鮮)と古代日本の繋がり
古代日本の歴史をさかのぼると、『古事記』や『日本書紀』が編纂される以前の時代については、日本自身の記録がほとんど残っていません。そのため古代日本について学ぶ際には、中国や朝鮮の歴史書を参照することになります。
1世紀の中国文献『漢書』地理志によると、当時の日本(倭)は100以上の小国が存在し、楽浪郡に朝貢していたと記されています。紀元57年には、奴国が中国の光武帝に朝貢し、金印を授かったという記録もあります。
107年には160人の奴隷を献上したことや、2世紀後半には大きな内乱があったことも伝えられています。
『魏志』倭人伝では、女王卑弥呼が親魏倭王の印章を受け取り、彼女の死後には壱与が後継者として使いを送ったと記されています。
また『宋書』倭国伝には、478年に倭の武が使いを送り「自分を倭の国王にしてほしい。それから朝鮮半島南部の将軍にしてほしい」と依頼したという記録があります。
朝鮮半島では、紀元前108年に楽浪郡が設置され、その後、帯方郡も設置されました。313年には、高句麗が楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島の北半分を支配します。この時代、朝鮮半島は「高句麗、百済、新羅」の三国時代に突入します。
倭(日本)と朝鮮半島の関係は、百済と新羅が同盟を結び、倭とも戦略的な関係を築いていたことが特徴的です。369年には、百済から倭に七支刀が贈られています。倭は朝鮮半島南部の鉄資源を求め、傭兵を提供していたようです。
高句麗の広開土王碑には、400年と404年に倭が侵入したとの記録があります。
中国では220年に東漢が滅び、三国志の時代を経て、439年ごろに北魏が華北を統一しましたが、江南は分裂したままでした。
北魏では、476年から490年まで馮太后が政治を担い「均田制」という制度を始めました。均田制はのちに隋・唐に受け継がれ、日本でも「班田収授制」として取り入れられました。
倭の五王が北魏ではなく、南朝の宋に使いを出したのは、北魏が朝鮮半島に権益を持っていたためと考えられます。朝鮮半島の国々は、北朝と南朝の両方に朝貢していました。
現代の韓国が、アメリカと中国に対してバランスを取りながら外交するように、古代の朝鮮半島も中国との難しい立ち位置に置かれていたのです。
5世紀まで中国に使いを送っていた倭ですが、しばらく記録が途絶え、600年に隋が中国を統一した後、再び使節が送られるようになりました。
隋の統一と遣隋使
隋が中国を統一した後、日本は隋の国力に驚き、国としての体制を整える必要性を感じました。
日本は隋に対して技術や制度を学ぶため、遣隋使を派遣することになります。
最初の遣隋使を派遣した後、日本は「冠位十二階」や「憲法十七条」の祖型などを作り、隋に「立派な国です」とアピールしながら、5回も遣隋使を送っています。
607年には小野妹子を送り、608年には僧侶や学者を留学に出しています。日本は隋から学び、国内の制度や文化を発展させようと必死だったのです。
隋からの使節が日本を訪れた際には、タリシヒコ(おそらく大臣の蘇我馬子)に会っています。
当時の日本の政治は推古天皇の治世でしたが、実権は親大陸派の蘇我氏が握っていたとされています。
隋の滅亡に焦る周辺国
しかし618年に隋は滅び、唐がその後を継ぎました。唐は安定した国政運営に成功し、強大化します。
隋の滅亡に周辺国も焦りを感じ始め、高句麗では淵蓋蘇文(えん がいそぶん)がクーデターを起こし、親唐派を粛清しました。
百済も親唐派を弾圧し、高句麗と百済による反唐同盟が成立します。
このように唐の成立は、周辺国に大きな影響を与えました。
高句麗と百済による反唐同盟の結成を受けて、日本でも「親大陸(唐)派で政治を牛耳る蘇我氏を倒せるのでは」という動きがあったとされており、このあとの「大化の改新(乙巳の変)」に繋がるきっかけだったと考えられています。
日本史の授業では教えられないことも多いですが、朝鮮の淵蓋蘇文のクーデターは、大陸(朝鮮半島)の動向が日本にも影響を与えた一例です。
当時は大陸から日本に多くの人々が流れ込んでおり、朝鮮半島の三国が内部で争っている様子を見て、日本の支配者層も意見が分かれました。「唐に従うか」「自立して戦うか」という選択を日本も迫られていたのです。
親唐派か、反唐派か。
日本の支配者層も二つに割れました。その結果が「乙巳の変(大化の改新)」であり、蘇我氏の打倒に繋がったと考えられています。
大陸(中国)で生じた政治的動向が、当時の日本に直接影響を与え、大化の改新という政治改革を引き起こしたのです。
参考文献:出口治明『0から学ぶ「日本史」講義 中世篇』文藝春秋
この記事へのコメントはありません。