
画像:松の丸像(誓願寺蔵) public domain
京極竜子(きょうごく たつこ)は、戦国時代から江戸時代にかけて生きた、絶世の美女と伝わる女性である。
彼女は近江の名門・京極氏の娘として生まれて若狭国の武田氏に嫁ぎ、子にも恵まれ、武家の妻として慎ましくも穏やかに暮らしていた。
しかし彼女の人生は「本能寺の変」以後、大きな変化を迎えることとなる。
今回は、豊臣秀吉の寵愛深き側室となり「松の丸殿」と称された京極竜子の、波乱に満ちた生涯を紐解いていきたい。
京極竜子の出自

画像:竜子の母方の祖父である浅井久政 public domain
京極竜子は、宇多源氏の流れを汲む京極氏の第16代当主・京極高吉と、浅井久政の娘である京極マリアの長女として生まれた。
生年は明らかではないが、竜子が京極高次・高知兄弟の妹とされることから、次兄・高知(1572年生)以降、父・高吉が急逝する1581年までの間に生まれたと推定できる。
なお、高吉とマリアの間には、この期間中に3人の娘が生まれたとされている。
竜子にとって、北近江の戦国大名・浅井長政は母方の叔父にあたり、その娘たち、すなわち浅井三姉妹(茶々・初・江)は竜子の従妹にあたる。
竜子は、若狭国(現在の福井県南部、敦賀市を除く)を治めていた武田元明(もとあき)の正室となり、2男1女をもうけたと伝えられる。
夫の元明は、若狭武田氏を支配下に置いていた朝倉氏の滅亡後に丹羽長秀の与力となり、織田信長から大飯郡石山において3000石の知行を与えられた。
このため、竜子は元明とともに、若狭国大飯井郡(現在の福井県おおい町)にあった石山城で暮らしていたという。
若狭武田氏の運命を変えた「本能寺の変」

画像:錦絵 本能寺焼討之図 3枚続 楊斎延一画 public domain
もともと若狭武田氏は、竜子の実家である京極氏と同じく名門であったものの、夫の元明が家督を継いだ頃には既に衰退していた。
応仁の乱では副将を務めるほどの権勢を誇った武田氏の末裔として生まれた元明であったが、朝倉氏の支配下では傀儡として扱われ、織田信長にも軽視される存在となっていた。
それでも彼は、かつて守護として若狭一国を治めた武田氏の勢力を再び盛り返そうと、野心を抱き続けていた。
そんな元明に、若狭武田氏再興のまたとない好機が訪れた。
それこそが、天正10年(1582年)6月に起きた「本能寺の変」である。
変の直後、元明は若狭一国の支配権を掌握しようと、従兄弟にあたる明智光秀に味方した。
しかし光秀が秀吉に敗れたことで、元明の野望は瞬く間に砕かれてしまう。
山崎の戦いで敗走した光秀の死後、恭順の意を示すべく近江国・海津(現・滋賀県高島市)へ向かった元明は、そこで謀られ、自刃に追い込まれたとされる。(丹羽長秀によって殺害されたという説もある)
元明の死によって若狭武田氏は事実上滅亡し、竜子とその子どもたちは敵方に捕らえられた。
元明の血を引くとされる2人の男児は処刑されたと伝わるが、その出自については諸説あり、弟とされる津川義勝や、北政所の甥・木下勝俊が元明の遺児であったとする説も存在する。
秀吉に見初められる

画像:伏見の城 松の丸の図/絵本太閤記 public domain
元明との死別後、竜子はその美貌と生まれの良さを見初められて、秀吉の側室となった。
はじめは大阪城の西の丸に居を構えていたことから「西の丸殿」と呼ばれていたが、のちに伏見城に移り、北東にあった松の丸御殿に住んだことから「松の丸殿」と称されるようになる。
名門・京極氏の姫として育った竜子は、絶世の美しさと気位の高さを持った女性だったと伝わっている。
彼女の気位の高さを伝える逸話としては、後世の創作とされる説もあるが、京都の醍醐寺で秀吉が開催した「醍醐の花見」でのエピソードがよく知られている。

画像:喜多川歌麿作「太閤五妻洛東遊観之図」。醍醐の花見を題材にした浮世絵 public domain
「醍醐の花見」が催された当日、会場となった醍醐寺三宝院裏の山麓には、まず正室の北政所の輿が入り、続いて淀殿、松の丸殿(竜子)、三の丸殿(織田信長の娘)、加賀殿(前田利家の娘)とその母・まつの順で入場したと伝えられている。
宴会の席で、秀吉の妻たちはそれぞれ秀吉から杯を受けることになるが、正室・北政所の次に誰が杯を受けるかをめぐって、竜子と淀殿の間で順番を争う場面があったという。
秀吉の寵愛を奪い合ったというよりは、竜子はかつて京極家の家臣でありながら下剋上で成り上がった浅井家出身の淀殿が、自分よりも後に側室になったにもかかわらず、秀吉の実子を生んだからと尊大に振る舞うことが、とにかく気に入らなかったようである。
お互いに気の強い竜子と淀殿の争いは収拾がつかず、ついには前田まつが機転を利かせ、「年齢の順から言えば私がふさわしい」と場を取り成したことにより、ようやく2人の争いは収まったという。
秀吉に深く寵愛され、兄を窮地から救った竜子

画像:戦国~江戸時代の武将・大名、京極高次の肖像画。 public domain
あるとき竜子は、秀吉の存命中に眼病を患い、有馬温泉での湯治を命じられたとされる。
湯治の手配を行ったのは秀吉で、竜子は数十人のお供を付けられて有馬温泉に向かったが、それでも秀吉は心配し、大坂から有馬温泉で過ごす竜子に宛てて、体調を思いやる何通もの手紙を送ったという。
竜子の兄である京極高次は、本能寺の変後に竜子の最初の夫・武田元明とともに明智光秀に味方したために、山崎の戦い後は秀吉から追われる身となった。
叔父の浅井長政の元妻で、柴田勝家と再婚していたお市の方のもとに逃れていたが、柴田家も秀吉に滅ぼされ、逃げ場を失ってしまう。
この窮地にあった高次を救ったのが、秀吉の側室として寵愛を受けていた実妹・竜子の嘆願であった。
元明と同じく、自刃を命じられてもおかしくはない立場だった高次だが、竜子の取り成しにより、高次は秀吉に許されるどころか近江国高島郡2500石を与えられた。
1586年には5000石に加増、同年に九州平定の功を認められて10000石に加増されて大溝城を与えられ、大名としての地位を取り戻している。
翌1587年には、従妹であり淀殿の妹でもある浅井初を正室に迎え、政略的にも豊臣家との結びつきを強めた。
こうして高次は「妹と妻の七光りで出世した」として「蛍大名」と揶揄されたが、後の関ヶ原の戦いでは東軍に与して奮戦し、徳川家康からもその功績を認められて、若狭一国を領する国持大名となる。
弟の高知とともに、京極家の再興を成し遂げるのである。
秀吉の死後

画像:京都・新京極通にある誓願寺 wiki c Volfgang
秀吉の死後、竜子は高次が城主となっていた大津城に身を寄せていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに先立ち、西軍による大津城攻撃の際には、本丸に籠もっていたとされるが、激しい攻防の末に落城を迎えた後も命を長らえた。
戦後、竜子は出家して「寿芳院(じゅほういん)」と号し、古来より女人往生の寺として知られる京都・誓願寺に帰依して、西洞院の自邸で余生を送るようになった。
かつて「醍醐の花見」で杯の順を争った淀殿の息子・豊臣秀頼とは、贈り物や礼状のやり取りをしたり、直接大坂城に秀頼を訪ねたりと、良好な関係を築いていたという。
しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、大坂城は炎に包まれ、淀殿と秀頼は自害した。
その混乱の中で、秀頼の嫡男・国松も、乳母や傳役に守られながら落ち延びようとしたが、ついに捕らえられ、わずか数え8歳で六条河原にて斬首刑に処された。
国松は嫡子ではなかったため、誕生直後から母方の叔母・初が嫁いだ京極家に預けられ、大坂城入城までは若狭の町人・砥石屋弥左衛門の養子として密かに育てられていたという。
京都に暮らしていた竜子は、六条河原での国松の処刑を阻止すべく駆けつけたとされるが、その願いは届かず、幼くして命を奪われた国松の亡骸を引き取り、誓願寺の墓所に丁重に葬った。
また、落命を免れた淀殿の侍女たちを保護したとも伝えられている。

画像:太閤坦(たいこうだいら)にある豊国廟の国松の墓
国松の亡骸を誓願寺に埋葬してから19年後の寛永11年(1634年)10月22日、竜子は京都・西洞院の自邸にて、その波乱の生涯に幕を閉じた。
夫を死に至らしめた秀吉から寵愛を受け、兄を助けて生家の再興のきっかけを作り、かつてのライバルの縁者もないがしろにせず誇り高く生きた竜子。
その亡骸は誓願寺に葬られたが、1911年には国松の供養塔と共に、竜子の供養塔が豊国廟に移された。
秀吉の数多の妻妾の中で、秀吉の墓所がある豊国廟に供養塔があるのは、竜子ただ1人である。
参考文献
越乃国歴女倶楽部 (著)『歴女が往く 恋する若狭路 若狭・越前の山城紀行』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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